飛び込みのもう真っ白な泡の中 神野紗希

 この句をどうとらえたらよいのか。なやまされた経験から、私が納得のいく形で解釈してみます。

まず、この句の一般的なとらえかたを紹介しておきます。

  1. 教師用教科書(指導書)では「飛び込み台から、水面めがけてジャンプしたと思った       ら、一瞬で着水し、あっという間にもう白い泡の中だったよ。」と紹介されている。
  2. 多くの生徒のとらえかたは「「自分がプールに飛び込んだと思ったらもうプクプクと湧く泡の中にいた。」であった。

 教師用教科書と同じ感想を生徒も感じています。高齢教師であった私は、「若者たちがそう解釈するならそれでいいか。」とは思ったのですが、じじいの頑固さが頭をもたげてきてしまうのです。しっくりこないのです。
 この句から感じ取れるとれる味わいは「爽快感」、つまり「飛び込み」という季語からくる「夏」と相反する「清涼感」ではないかと感じてしまうのです。「すっきりした」「さっぱりした」「涼しげでさわやか」という感覚です。
 「飛び込み」という伏線が、「もう真っ白な泡の中」にとある爽快感にどう回収されるのか(どう関係するのか)疑問に思ってしまったのです。

▷《主観の立ち位置による相違》
 多くの解説が、飛び込んだ主体(飛び込みを行った自分)の感想を表現しているようです。さきほどの教師用教科書もそうですし、生徒の反応もそうです。私だったら、自分が飛び込み台の上に立ち、そこから飛び込んだとして、「もう真っ白な泡の中」なんて感想を抱きはしないと思う。仮に白い泡の中にいる自分を確認できたとしても、ジャグジーのような気持ちよさ=爽快感という解釈ではないはずだし、百歩譲って「恐怖心を乗り越えたさわやかさ」ととったとしても、「それは爽快感というよりは『達成感』だろう。」って思ってしまうのです。私は、主体を客観的な位置においてこの句をとらえたほうがいいかぁと思ってしまうのです。
▷《「飛び込み」を何と想像するかの相違》 
 学校の生徒が「飛び込み」から連想するものは、学校のプールや競泳用プールの飛び込み台です。1レーン~8レーンまであるいわゆるプールの飛び込み台です。
 私はそうではないものとしてとらえています。私が想い描くのは玉井陸斗君で注目された「高飛び込み」です。
 高飛び込みの選手自身が「もう真っ白な泡の中」なんて想いもしないでしょう。ましてや高飛び込みの経験の薄い者が「恐怖で頭の中が真っ白になっておそるおそる飛び込んだところ、たまたま上手くいって白い泡の中にいたよ」なんて様子とは思えないのです。
 「じゃあ高飛び込みじゃないの?」って思ってしまいますよね。私は、高飛び込みの競技を第三者の立場(観客席)から見た様子だと思っているのです。
▷《「もう」をどう回収するか》最大の謎となるのが、「もう」をどうとらえるかです。
 時間的な短さを表すのはいいとして、それだけではない気がしてならないのです。数ある二音の語の中から「もう」という言葉を作者が選択した伏線を回収したいのです。おそらく、「もう」が彼女にとっていちばんしっくりくるものだったのだろうと思われるからです。この「もう」には、「もうたくさん」とか「もう駄目だ」といった悲観的な度合いとは真逆の前向きな「もっと」や「その上」といった要素を感じ得るのです。

 これらのことをふまえて、わたしが解説するならば、次のようになります。

 高飛び込みの様子を固唾(かたず)をのんで見ていると、選手は飛び出したと思ったら空中で見事な演技を見せた。その上、シュポンとしぶきも上がらぬ見事な着水だった。選手は水の中に消えた。あとから泡だけがのぼってきた。3秒にも満たない爽快なドラマであった。

 自分がしっくりできる(納得できる)解釈を描けばよいと思いました。自分の価値観でよりよい作品にするという方向性だけは失わなければ‥‥。