おくのほそ道 冒頭部分 の 考察

「おくのほそ道の冒頭部の解釈と芭蕉の追求する理念とは」として「芭蕉隠密論」にも多少触れる形で改稿してみました。

 ⇒「おくのほそ道の冒頭部の解釈と芭蕉の追求する理念とは」PDF 


おくのほそ道の冒頭部の解釈と芭蕉の追求する理念とは

    「主題に関わる疑問点についての考察」  時の旅人そして無常観 芭蕉隠密説についても少し

 はじめに
 中学国語の教師として三七年。まもなく定年を迎えるにあたり、どこかでとりあげてほしい事柄を述べたい。研究者でもなく一介の教員でしかないため発表の機会もなく、ずっと疑問に思いつつ温めていたことである。

【その1】 冒頭部分の解釈
  「おくのほそ道」の冒頭の部分は芭蕉が何を述べようとした部分といえるのか? 
 三学年の「古典分野」の教材として、どの教科書でも扱う「おくのほそ道」の冒頭部。「光村」の教科書においては、別欄のように表記し、解釈している。

―別欄―

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えむと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲りて、杉風が別墅に移るに、
 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
面八句を庵の柱に懸け置く。


 月日は永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、過ぎ去っては新しくやって来る年もまた旅人に似ている。一生を舟の上で暮らす船頭や、馬のくつわを取って老年を迎える馬子などは、毎日毎日が旅であって、旅そのものを自分のすみかとしている。(風雅の道に生涯をささげた)昔の人々の中にも、旅の途中で死んだ人が多い。私もいつの頃からか、ちぎれ雲のように風に誘われて、あてのない旅に出たい気持ちが動いてやまず、(近年はあちこちの)海岸をさすらい歩き、去年の秋、隅田川のほとりのあばらやに(帰り)、蜘蛛の古巣を払って(住んでいるうちに)、次第に年も暮れ、新春ともなると、霞の立ちこめる空の下で白河の関を越えたいものだと、そぞろ神が乗り移ってただもうそわそわとさせられ、道祖神が招いているようで、何も手につかないほどに落ち着かず、股引の破れたところを繕い、道中笠のひもを付け替え、三里に灸をすえる(など旅の支度にかかる)ともう、松島の月(の美しさはと、そんなこと)がまず気になって、今まで住んでいた庵は人に譲り、杉風の別荘に移ったのだが、
 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
 (元の草庵にも、新しい住人が越してきて、私の住んでいたころのわびしさとはうって変わり、華やかに雛人形などを飾っている。)
面八句を、(門出の記念に)庵の柱に掛けておいた。


 「月日」も旅人、「年」も「船頭」も「馬子」も皆、旅人。芭蕉が尊敬してやまない昔の詩人(李白・杜甫・宗祇・西行)も旅人であり、旅の途中で死んでいった。芭蕉は「自分もそんな旅人でありたい」と願っている。前の旅から戻った芭蕉は、しばらくすると、次の旅のことを思い、いてもたってもいられなくなり旅の準備を始める。ついには江戸深川の「芭蕉庵」を人に譲ってしまう。その際、「草の戸も…」句を記した「面八句」を家の柱にかけておいた。
となるのだが、そもそもこの冒頭の段において、
 Q 筆者芭蕉は何を述べたかったのか?
もう少し具体的にいうなら、
 a なぜ、芭蕉庵を人に譲ったのか?
 b 柱に懸けおいた面八句は何のため?
という疑問が浮かび上がる。
 aについては
 ・旅の資金を捻出するため
 ・古人にならい旅で臥す最後の旅となるかもしれぬと決意を固めたため
という答えが考えられる。
 門人も多かっただろう芭蕉が、旅の資金を捻出するなどという目的を示唆するような風雅の道にそぐわぬことをここで述べるだろうかと考えると、一つ目は消える。
 この時四十六歳の芭蕉はけっして若いとは言えない。何時旅の途中で臥すかわからないので、家を売り払って、覚悟を決めたというのは、たしかにその根拠とはなりえよう。
 bについては
 ・ここに確かに私(芭蕉)は居たのだということを残すため
 ・「門出の記念」のため
などがあげられる。(2点目の「門出の記念」は光村の解釈より)
 自分自身の存在の証などという自己顕示欲に満ちた風雅にそぐわぬことを芭蕉が思ったのかと考えると、これは消えそうである。
 (門出の記念に)と括弧で補っているところは、私からすると大変すばらしく思える。ただし、「誰の、何の」門出であるかを表していないところが、もどかしくてならない。
 この「面八句」と「庵の柱に懸け置く」について「中学校国語学習指導書3下」には次のように解説している。

 【面八句】」―略― 一番目の句を発句というが、「草の戸も……」の句は、芭蕉送別のために巻かれた百韻の連句の発句であることになる。ただし、「草の戸も……」を発句とする連句も、この句に関する門人たちの言葉も今日に伝わっていない。
 【庵の柱に懸け置く】 連句を書いた懐紙は、水引で結わえ、柱にかける習慣があった。「草の戸も……」の句を実景と取れば、すでに芭蕉庵は人手に渡っているわけであるから、庵は採茶庵(杉風が別墅)を指すことになり、想像上の句と取れば芭蕉庵を手放すときの句ということで、庵は芭蕉庵を指すことになる。
 十八年度版教科書までは「表八句」「庵(いほり)」としていたが、原典の変更により、二十四年度版以降はそれぞれ「面八句」「庵(あん)」と改めた。


 余談として、「庵の柱に懸けおく」の「庵」について、「正進社 新国語の便覧」でも、①移り住んだ杉風の別荘を指す ②もとの芭蕉庵を指す と二説を併記している。
 学習指導書の記述から読み取れることは、柱に掛けたとされる面八句には「草の戸も……」の発句以外の句が残っていない(発見されておらず、書かれていただろうほかの句の内容を記す文献もない)ということなのだろう。〔連句であれば、多数の手を経ておりなすはずの面八句ゆえ、それを芭蕉自身が全て書いたとも、多くの門人がここに介して書いたとも考えられない。この時点からも面八句は「草の戸も」の芭蕉の発句だけだったと推測できる。面八句なのだから八句あったはずという考えは陳腐〕
 また、「庵」がどこを指すかについては、採茶庵と芭蕉庵の両説を併記する形をとっており、明言を避けた形となっている。(これは、資料集・便覧でも同じである)
 なんでそうするのかいうと、さすがの芭蕉でも、他人に譲り住人のいる家に、あつかましくもあがり込み、柱に面八句をかけたとは考えにくいためであろう。よって、杉風の別荘という説もありうるとしたのではないか、とは想像できる。
 さて、本題の「冒頭の段において、芭蕉が何を述べようとしたのか」に戻ろう。幾つかの、はっきりしない、疑問とも何とも言えぬもやもやを快刀乱麻を断つがごとく、すべての謎をすっぱり解き明かす答えがないものだろうか。
 結論として、
 「家(元芭蕉庵)の門出(旅立ち)」の段ととらえればよいのではないか。
 「月日」も「年」も「船頭」も「馬子」も旅人、すべてのものは旅人であり、自分も先人にみならってうつりゆく旅人でありたい。この無常観と呼応する思いの中で、忘れものといえば草庵である。主人が旅に出れば、蜘蛛の巣がはってしまうだけのひなびた家と化すだけである。そんな草庵に新たな人生を送らせんと旅立たせたのであろう。
 そう考えれば、面八句を柱に掛けたことも解決できる。譲る先の住人には女の子のいる家庭だとは知った上で、引っ越してくる前に、草庵の柱に面八句を掛けておいたわけであり、そこには「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家(発句)」のみが書かれていたと考えられる。この発句以降の今後は、(連歌にならい)新たな住人とともに新たな人生を紡いでいってほしいという願いだととらえればよいだろう。
 旅人ではじまり庵(家)に着目して終わるこの冒頭の段、旅人⇒庵、庵の旅立ち。そんな糸が見えてくる。つまり、草庵の門出(新たな旅立ち)を祈念(記念)した段 と思えてならないのである。

【その2】芭蕉の求めたもの
 芭蕉が強く意識し、作品に施したものとは、「時間」の概念であろう。「おくのほそ道」の冒頭から「月日は‥」と始まるの点はもちろんだが、尊敬する古人の一人李白が「百代の過客」という詞を用いたり、中学の国語で学習した七言絶句「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」の中にうかがえる「友を乗せた舟が見えなくなるまで見送る」様子に世間とは隔絶したおおらかなる時間の流れを感じ得ずにはいられまい。つまり、芭蕉は李白を「時空を描く―時間を意識した詩人」と捉えていたのであろう。
 また、日本においては、「道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ」の歌で有名な西行がそれにあたる。巷とは異なるゆったりと流れる心地よい時間、そこに情感を寄せた西行。芭蕉の求めんとする師匠の姿がそこに見えてくる。「おくのほそ道」の旅そのものが、この「遊行柳」の地で芭蕉が残した「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句にもみられるとおり、古人西行ゆかりの地を巡る旅でもあったのだろう。 西行は平泉(奥州藤原氏)を平安末期に訪れている。奈良東大寺の消失に伴いその再建にあたる資金を調達するため砂金を融通してもらわんと訪れたらしい。時は平安末期、頼朝が平家討伐を終え、その立役者であった弟義経追討の命を下したころのことである。西行は鎌倉に赴き、頼朝に平泉に向かう趣旨を伝え、旅の許可を得に来たのだろう。頼朝からすれば、平家以後の気がかりな目の上のたんこぶといえば、これまで沈黙を貫いてきた奥州藤原氏。西行が藤原鎌足を祖先にもつ(奥州藤原氏と親戚) ことも承知のうえで、あえてある思惑ゆえに西行を放たせたのかもしれぬ。思惑とは「義経が世話になった奥州に赴けば、藤原氏撲滅の大義がたつ」といったものかもしれない。ともあれ、西行は表向きの口実として「東大寺再建」を理由に平泉を訪れ、藤原秀衡に頼朝の動向をそして察知した思惑を伝えんとしに来たように見えてくる。かつては北面の武士であった西行の出家後の隠密めいた行動。そんな西行に傾倒する芭蕉であれば、次のような新たな説も思い浮かぶ。
 「芭蕉は隠密・忍者だったのでは」と言われる。わたしとしてはそうは思っていない。徳川に顔の利く付き人の曾良こそが、命を負ったそれではなかったとも言われるが、わたしは旅を円滑に進めるにあたり、幕府に顔の利く曾良により、関所等を簡易に通過すべく伴ったのではと思える。
 確かに徳川が東照宮修繕を仙台藩に負わせた状況、つまり時の権力者が、奥州ににらみを利かせる構図。これは鎌倉の頼朝が奥州藤原氏ににらみを利かした構図と符合する。その合間でその間を行脚するのが西行であり芭蕉なわけだ。何らかの密命をもってその間を旅したと考えるのも無理ないのかもしれない。しかし、情緒を重視して考えるならば、「西行に傾倒する芭蕉(西行かぶれの芭蕉)」は、違う時空に符合する権力者と奥州の狭間で西行の心境に近づかんとしたのではなかろうか(五百年の歳月を越えた時の旅人)。それが芭蕉を謎めかせ隠密めいて見せている理由ではないかと思っている。
 時の流れの中でうつろうこの世の無常……。

※古人「杜甫」は、芭蕉の無常観を映す鏡であり(唐代の詩人から数えれば芭蕉は千年に迫る昔をも偲び感慨にふけていたのだろう)、「宗祇」は俳諧連句の師匠、  俳句という文芸が確立するのは明治になってから。


おくのほそ道考(改訂版)をPDFにてUPしました。→okunohosomichi_kou_kaiteiba

もともと各段に題目などないのだが、書籍によって「冒頭」、「旅立ち」、「序文」、「漂泊の思ひ」、「発端」、「出発まで」などを題される冒頭部。調べる限りにおいてこの冒頭部の謎について記されているものがないゆえ興したものです。

上記に見られる題目からは、おそらくたどり着いていないだろうと思われる事柄を書いてあります。私が表題を付けるなら「庵の門出(旅立ち)」とでもなるものです。

おくのほそ道考(改訂版)「庵の門出(旅立ち)」の内容

はじめに
中学国語の教師として37年。まもなく定年を迎えるにあたり、どこかでとりあげてほしい事柄を述べたい。研究者でもなく一介の教員でしかないため発表の機会もなく、ずっと疑問に思いつつ温めていたことである。
それは、「おくのほそ道」の冒頭の部分が芭蕉が何を述べようとした部分といえるのか? という本質的な疑問に尽きる。
三学年の「古典分野」の教材として、どの教科書でも扱う「おくのほそ道」の冒頭部。
「光村」の教科書においては、下記のように表記し、解釈している。

月日は永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、過ぎ去っては新しくやって来る年もまた旅人に似ている。一生を舟の上で暮らす船頭や、馬のくつわを取って老年を迎える馬子などは、毎日毎日が旅であって、旅そのものを自分のすみかとしている。(風雅の道に生涯をささげた)昔の人々の中にも、旅の途中で死んだ人が多い。私もいつの頃からか、ちぎれ雲のように風に誘われて、あてのない旅に出たい気持ちが動いてやまず、(近年はあちこちの)海岸をさすらい歩き、去年の秋、隅田川のほとりのあばらやに(帰り)、蜘蛛の古巣を払って(住んでいるうちに)、次第に年も暮れ、新春ともなると、霞の立ちこめる空の下で白河の関を越えたいものだと、そぞろ神が乗り移ってただもうそわそわとさせられ、道祖神が招いているようで、何も手につかないほどに落ち着かず、股引の破れたところを繕い、道中笠のひもを付け替え、三里に灸をすえる(など旅の支度にかかる)ともう、松島の月(の美しさはと、そんなこと)がまず気になって、今まで住んでいた庵は人に譲り、杉風の別荘に移ったのだが、
草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
(元の草庵にも、新しい住人が越してきて、私の住んでいたころのわびしさとはうって変わり、華やかに雛人形などを飾っている。)
面八句を、(門出の記念に)庵の柱に掛けておいた。

「月日」も旅人、「年」も「船頭」も「馬子」も皆、旅人。芭蕉が尊敬してやまない昔の詩人(李白・杜甫・宗祇・西行)も旅人であり、旅の途中で死んでいった。芭蕉は「自分もそんな旅人でありたい」と願っている。前の旅から戻った芭蕉は、しばらくすると、次の旅のことを思い、いてもたってもいられなくなり旅の準備を始める。ついには江戸深川の「芭蕉庵」を人に譲ってしまう。その際、「草の戸も…」句を記した「面八句」を家の柱にかけておいた。
となるのだが、そもそもこの冒頭の段において、
Q 筆者芭蕉は何を述べたかったのか?
もう少し具体的にいうなら、
a なぜ、芭蕉庵を人に譲ったのか?
b 柱に懸けおいた面八句は何のため?
という疑問が浮かび上がる。
aについては
・旅の資金を捻出するため
・古人にならい旅で臥す最後の旅となるかもしれぬと決意を固めたため
という答えが考えられる。
門人も多かっただろう芭蕉が、旅の資金を捻出するなどという目的を示唆するような風雅の道にそぐわぬことをここで述べるだろうかと考えると、一つ目は消える。
この時46歳の芭蕉はけっして若いとは言えない。何時旅の途中で臥すかわからないので、家を売り払って、覚悟を決めたというのは、たしかにその根拠とはなりえよう。
bについては
・ここに確かに私(芭蕉)は居たのだということを残すため
・「門出の記念」のため
などがあげられる。(2点目の「門出の記念」は光村の教科書の解釈より)
自分自身の存在の証などというやはり、自己顕示欲に満ちた風雅にそぐわぬことを芭蕉が思ったのかと考えると、これは消えそうである。
(門出の記念に)と括弧で補っているところは、私からすると大変すばらしく思える。ただし、「誰の、何の」門出であるかを表していないところが、もどかしくてならない。
この「面八句」と「庵の柱に懸け置く」について「中学校国語学習指導書3下」には次のように解説している。

【面八句】」―略― 一番目の句を発句というが、「草の戸も……」の句は、芭蕉送別のために巻かれた百韻の連句の発句であることになる。ただし、「草の戸も……」を発句とする連句も、この句に関する門人たちの言葉も今日に伝わっていない。
【庵の柱に懸け置く】 連句を書いた懐紙は、水引で結わえ、柱にかける習慣があった。「草の戸も……」の句を実景と取れば、すでに芭蕉庵は人手に渡っているわけであるから、庵は採茶庵(杉風が別墅)を指すことになり、想像上の句と取れば芭蕉庵を手放すときの句ということで、庵は芭蕉庵を指すことになる。
十八年度版教科書までは「表八句」「庵(いほり)」としていたが、原典の変更により、二十四年度版以降はそれぞれ「面八句」「庵(あん)」と改めた。

余談として、「庵の柱に懸けおく」の「庵」について、「正進社 新国語の便覧」でも、①移り住んだ杉風の別荘を指す ②もとの芭蕉庵を指す と二説を併記している。
学習指導書の記述から読み取れることは、柱に掛けたとされる面八句には「草の戸も……」の発句以外の句が残っていない(発見されておらず、書かれていただろうほかの句の内容を記す文献もない)ということなのだろう。
また、「庵」がどこを指すかについては、採茶庵と芭蕉庵の両説を併記する形をとっており、明言を避けた形となっている。(これは、資料集・便覧でも同じである)
なんでそうするのかいうと、さすがの芭蕉でも、他人に譲り住人のいる家に、あつかましくもあがり込み、柱に面八句をかけたとは考えにくいためであろう。よって、杉風の別荘という説もありうるとしたのではないか、とは想像できる。
さて、本題の「冒頭の段において、芭蕉が何を述べようとしたのか」に戻ろう。幾つかの、はっきりしない、疑問とも何とも言えぬもやもやを快刀乱麻を断つがごとく、すべての謎をすっぱり解き明かす答えがないものだろうか。
結論として、
「家(元芭蕉庵)の門出(旅立ち)」の段ととらえればよいのではないか。
「月日」も「年」も「船頭」も「馬子」も旅人、すべてのものは旅人であり、自分も先人にみならってうつりゆく旅人でありたい。この無常観と呼応する思いの中で、忘れものといえば草庵である。主人が旅に出れば、蜘蛛の巣がはってしまうだけのひなびた家と化すだけである。そんな草庵に新たな人生を送らせんと旅立たせたのであろう。
そう考えれば、面八句を柱に掛けたことも解決できる。譲る先の住人には女の子のいる家庭だとは知った上で、引っ越してくる前に、草庵の柱に面八句を掛けておいたわけであり、そこには「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家(発句)」のみが書かれていたと考えられる。この発句以降の今後は、(連歌にならい)新たな住人とともに新たな人生を紡いでいってほしいという願いだととらえればよいだろう。
旅人ではじまり庵(家)に着目して終わるこの冒頭の段、旅人⇒庵、庵の旅立ち。そんな糸が見えてくる。つまり、草庵の門出(新たな旅立ち)を祈念(記念)した段 と思えてならないのである。

《謎を解き明かすヒントとして散りばめられたピース(欠片)と注釈》
・蜘蛛の古巣……芭蕉が旅に出て家を空けている時の状態→新たな旅(おくのほそ道の旅)に出たあとの芭蕉庵の様子をも暗示させる→帰ってこないかもしれない主を待たせるよりこの家を旅立たせよう。
・面八句……俳諧連句(連歌)の師といえる宗祇を意識し、数人の連作によって織りなす連歌の発句(草の戸も……の句)のみを記し、このあとの続きは、新たな住人と家とによって刻んでいってほしいという願い。

※「古人」芭蕉の尊敬してやまない詩人:①李白[冒頭:百代の過客、春立てる霞(煙花三月下揚州)]②杜甫[夏草:国破れて山河あり]③西行[夏草:時の移るまで、冒頭:月日、年=時]④宗祇[冒頭:面八句(俳諧連歌のならわし)]

旧版 おくのほそ道考

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