Vol.26 教育こそは本道を

教育こそは本道を

 前号の続きとなるが、マジョリティが肥大化しマイノリティ払しょくに躍起となっている世相。間違いなく教育にもその影を落としている。いや、教育にこそより強く流布せんと行使している。なぜなら、教育を牛耳れば、その後の長い期間安泰となるであろうという目論見があるからだ。
 「天井の高い家にしてよかったわね」で知られる竹野内豊と中村優子の演ずる大和ハウスのCMを見たことありますよね。「本当は狭くて低いところが大好きなんだ‥‥」‐‐‐「言えない(--);」「言わせない(--メ)」あれである。この「言えない」「言わせない」の構図のなかに現代があり教育がある。粛々とこの流れの中に持ち込まんとしている。「言わせない」空気を常として、「言えない」状況に持ち込む図式をである。
 我々教員も子供に対して同じことをしている場面は多かろう。「天井が高い方が広々としていて、いいに決まってるじゃん。何の文句があるのよ!(これがマジョリティ)。」少数派(マイノリティ)は、何も言えなくなる。論破した感に酔いしれる多数派(マジョリティ)。そしてこれが本道となって流布されていく。

 ちょっと待った!わたし(じいちゃん)はね、「子どもは子供らしく成長していけば良い」と思っているんじゃ!それが教育。確かに子供たちは経験値が低い。知らないこと、経験してないことは多々ある。だから、それを教えるべく「これが正しいこと。やるべきこと。こうしてこうしなさい。」となってしまうのも解らないではないが(暗に道徳の教科化を揶揄してます)、別の先生からもまた別の同じようなことを言われ、やらなければならないものがどんどん積みあがっていき、自分の判断(考え)が生徒ですら、入る隙もなくなっているのではないかと思うのです。白髪レガシーvol.9「mustに脅える焦燥の観念」でも書いたが、MUST(~~しなければならない)に追われて硬直化し麻痺する教育に未来はない!教師もそうであるように子供もそうなってしまうのだから‥‥。
 教師は良いと思うものは店としてひろげることはOK。それを取捨選択させる力を子供に持たせるのが教育だと思う。自分の店にだけに来させたり、自分の理論や考え・方法が正しいのは決まってんだからと、マインドコントロールまがいの誘引は差し控えなければならない。しかるに、世は強引なまでに正論と振りかざして我々を抑えにかかる。教師は逃げ場を失い、忙しさもあいまって、肝を抜かれてしまう。言われたことをこなすだけとなる。
 何度でもいう!対処する教育に終始してはならない。
「考えさせる教育」と言っておきながら、本当の意味での考えることもさせず、ただ考えさせた風を装わせて、それを教育というなかれ!
 考えたところで答えは決まっているのなら、人は考えることをやめてしまうのは当たり前。子供だって同じである。考えるために必要なあれこれを教えてあげればいい。考えて結論を出すのは子供なのだから。考えさせず、結論まで用意された教育に未来が見えますか?

 通常級にかなり深刻な発達障害等を持つ生徒が入るようになってからだいぶたつが、どう思います?ADHDやらアスペルガーやら昔から通常級に存在したが、そんな名称を付けるでもなく、支援が必要と思えば、担任が自分の範疇で考えて策は講じてきた。しかし、親の要求が教員の指導を凌駕する(机上の論理が現場の指導を圧制する)ようになってからは、この場合はこうすることといったマニュアル化された対応をこなすばかりの言い訳づくりの教育となり、ひとつひとつどの症例なのかにあてはめるだけで、これはここへ、それはあそこへ相談させる的なあっせん業となり、教員個人が考える理論や方策を実践する余裕もない。集団の中でリスクはあれど、助け合い分かり合う経験から学ばせることも少なくなった。すると、「どうせできないんだから言われたとおり、書かれているとおりやるしかないでしょ」ともとに戻ってしまう。堂々巡りの繰り返し。
 どんな子供にも自分で成長する機会があるべきで、自分で判断する経験を得なければならない。教員だって同じです。子供の成長に舵を取らず、大人である自分たちのメンツを重んじ、責任を負わないようにすることを準備するだけでは、決して教育の本道とは言えない。また、子供に対しては、あるべき姿に仕込むことが到達点ではない。あるべき姿は提示しつつも、その中に子供自身の意志が脈打つことを目指していくべきだ。志が届かなければ腐敗する。志という芯を通して作らなければ、張り子のごとく潰れていく。「豊かな人生」「生き甲斐を感じ続けられる人生」を築くために、築かせるために。我々の人生観は必ずや子供たちに影を落とすのだから‥‥。

白髪レガシーVol.26 PDF