Vol.61 生きる(自然と人間) - あわわわわぁ –

 人は、簡単かつ自然な方法によって、「心安らかに豊かに生きる」ことへ、舵をきらねばならないだろう。
 難しいことが、正しいことなのか? 偉いことなのか? 貴ぶべきことなのか? いや、単純なものにだって真理はあるはずさ。純粋だからこそきらめくものでもあるはずさ。きっと、難しいものと認識させて、煙に巻く、誤魔化す算段なのだろう。

 自然が牙を剥く と よく言われる。いや、自然に対して執拗に牙を剥いてきたのは人間ではないか。

 人は、作物を産出する。自分なりの考えと試行錯誤を通してより良きものを必要なだけ産み出そうと工夫するのは、人間が自然の摂理を侵さぬぎりぎりの役割でもあろう。しかし、二十世紀には、限度を遙かに超えた超産物を次から次へ産みと出し、自然に寄与・貢献することを忘れてしまった。今では、巷は不必要となった諸々であふれてしまっている。

 権力を持つという目的のために造られた産物は、巷においては、必要なく機能もしない。どこそこの兵法書と同じで、権力者にとっては役に立つかもしれぬが、一般の人にとっては、それに意義をもって生きることほど、意味のないことはないのだ。泡ははじけるもの。そう、バブルははじけるものである。泡という、ほぼ実体のない世界で、産み出され、その舞台では、その有効性、優位性を誇ってはいるが、実態のある巷においてはゴミと化すものがほとんどなのだ。核は戦争においてその威力を発揮するだろうが、核を用いた(平和利用した)産物は、ゴミに等しいではないか。つぎからつぎへと廃棄物という実体のあるゴミと、悲しみという実体のない実態を持つ心のゴミまで積もらせていく。核のゴミの処理を生業とする者は好んではいないだろう。核による心のゴミについても、手を付けないことで乗り切ろうとするふしを感ずる。ある意味、お手上げ であるにもかかわらず、更なる高みへとつき進もうとする。戻るチャンスはあったのに省みず、泡でしかない先へと思考はどんどん進んでいく。

 人ならば、与え与えられ共に助け合うことなのだが、自然 と 人間 の間では、それが成り立つ理念まで、遡らなくてはなるまい。「自然との協調」と言ってしまえば、ありふれた言葉と受け取られるだろうが、自然から恩恵を受け、自然に対しても恩恵を与える意識という深いところにある大きな理念のもと、人類は「生きる」ことをしていかねばならない。おそらく現代はその限界に来ていると思う。はじける前に世界が手を結ばなければならない。しかし、期待はできない。なぜなら、そもそもどの国も泡の産物である「経済」を基盤から外さないからである。「濡れ手に粟」とばかり、安易に儲ける方法ばかりを模索して、巷に無理を強いる。最後は「濡れ手に泡」となって、はじけていくのに。
 普通に自然を傍らに感じて「生きる」こと。それがそんなに難しいことなのか? 相手に対して「言うことをきかせよう」とする威圧的な姿勢で事を進めるから問題が生じるのだ。コロナ禍で、打つ手、打つ手がその時ばかりではじけて消えるのは、本質に立ち返らず、都合のいいところを探して「V字回復」という経済を向く志向が未だに残っているからである。巷の協力が得られるうちに日本は何とかしないといけない。米国のように分断が顕著になってしまうと、泡の戦いになるだけだ。仲介役は「民主主義」であったが、これも水泡に帰すのかもしれない。

 米国旧大統領の発した大統領令を、新大統領が、大統領令で覆していく。元が悪令であったのだから素早く回復できていいのかもしれない。でも、「民主主義」の旗を振ってきた米国。議会の承認もなく、発することのできる大統領令。どれだけ大きな権限を大統領は有していたことか。どれだけいびつで危うい民主主義の上にあった国なのかと思い知らされた気がする。「人民の、 人民による人民のための政治」は、米国はおろか、世界にも息づいてはいないだろう。そう、はじけた水泡にならんとしている。
 2021.1.22

 教育現場も全く同じ様相。わけのわからん泡に付き合わされないようにしたいものです。

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