中三女子 殺人未遂事件 に思う

 井の頭線神泉駅付近の路上で母娘を包丁で襲い、殺人未遂容疑で逮捕された中学3年の少女の事件。
 8/22 埼玉県戸田市教委の会見の様子が報じられた。内容は「報道以上の情報を得ておらず、逮捕された少女を特定できていない」とのこと。私はこの様子がどうにも不可解に思えてならなかった。なにゆえ会見を開いたのか?容疑者が誰かもわからぬ中で、会見を開くことに不信感を抱いてしまったのだ。
 勘ぐるならば、何かととやかく言われる前に先手をうって会見したと見える。市内の学校に対しては注意喚起と命を大切にする指導の方策を講じるよう指示する目的もあったと思われる。それでも「市教委としては、このようにやりましたので。」といった方便に聞こえ、ここでも世間体を一番に見て現場やその実態に関わる人の想いや真実は二の次かと想えてしまう。
 学校はさぞかし大変だろうと思う。夏休み中でもあり、直接の指導が中断されている中で、問われるのは「これまでどんな指導をしてきたのか。」であり、「予兆できるような様子はなかったのか。」である。普段の様々な場面で生命や安全に関わる指導は行われていただろうが、不登校生ということもあり、指導が届いていなかったと解釈されてしまいそうだ。言えないだろうが「学校ではこれ以上無理です!」というのが本音であろう。容疑者生徒は市内の塾に向かったが「もう頑張れない。」と塾には行かず、東京へ向かったようだ。
 学校の先生は大変です。アンテナはって、生徒の変異を見逃すことなく、夏休み中でも、不登校でも、家庭訪問などを行ったとしても塾へ行くところを張り込みまがいに見守らない限り、止められないだろう。親子の関係もあるだろうし、立ち入ったところへ踏み込まないかぎり未然に防ぐことは難しいのだ。世間はきっと、「ある程度立ち入ったところのそれやれよ!」って言うだろうし、「やらないより、やった方がいいに決まっている」という何の根拠もない通念から、仕事に組み込まれていく気がしてならない。きっと、これまでも学校はまったくやってないわけではないだろうし、これからもやっていくはずだ。ただ、道徳ひとつとっても、曲学阿世ととれる実施の在り方を改めるべきだ。
 「人を傷つけたり、悲しませたりしてはいけません。」と説いて、それを指導として子供が学び得たのであれば、子供たちが犯罪をおかすことはない。しかし、現実にはたくさんの未成年者の犯罪がおきている。何が原因か? 子供にとってピンとくる指導になっていないからである。「人を傷つけたり、悲しませたりしてはいけない」のは、彼らだって名目上わかっている。ただ、心に響いてはいない指導なのだ。法律や慣習もそうだが、指導も曲学阿世の徒に転じてきたように思われる。そういう教育の流れにあるのだから、改善するには相当の覚悟と決断が必要だろう。子供たちに「こうしなさい」では通用しないのだ。体現できるものとしてピンとくる指導を、学校だけでなく家庭も含め社会全体が認識しあえる環境づくりが求められよう。
 ピントがあってなかろうが、指導や施策というシャッターを押して撮りまくり、「これでよし」としてきたツケがまわってきた気がする。曲学阿世‥曲学阿世‥‥。
2022.8.24
 

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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