Vol.37 付加価値をもとめる先に

付加価値をもとめる先に

 ○○すれば◎◎になる。〇○をすると、◎◎というメリットが見込める。潜在意識の中に、子供も親も教師も社会もきっと持ち合わせている心理であろう。
 大義がたてばそれは正しい。大義名分とされるのだから正しいに決まっている。もし、悪い奴がいて、大義でも何でもないようなことを大義としてしまったら‥‥。社会の大義の一つが法律である。法として君臨してしまえば、法治国家であるならば、その法が侵すことの許されぬ大義となる。
 普通のものより付加価値のあるもののが良い、プレミアムじゃなくちゃ。3つの普通のイチゴより糖度の高い一粒の大きなイチゴがいい。まびかれる運命を背負って生きている社会。淘汰される社会。
 私だけなのだろうか、町中でめっきり雀を見ることがなくなった。川でメダカを見なくなったのはよく聞く話ではあったが…。そういえば、銭湯も減ったし、大衆食堂も減っていった。庶民的なものは、姿を消していく運命を宿す世の中なのかと思う。どこかに特化する付加価値のあるものが尊ばれ、そうでなければ生き残れないという強迫観念をもよおす。農業にしろ、電化品にしろ、飲食店にしろブランドという名のプレミアムを付けることに必死である。社会の流れがそうである故、教育にもその流れが押し寄せる。最先端の仕様が尊ばれ、それを遂行するものが是とされる。流れに乗れないものは、時代遅れとされ歯牙にもかけない扱いをされる。子供たちも潜在意識としてその流れを感じ取ってしまっている気がしてならない。彼らとて、特化することを望んで、自分にはもともとないものを取り付けて、自分ではない自分を装うことを強要されているのが現状ではないのか。自分を出せず、自分の居場所があやふやになり、心地よくもないのに心地よくあらねばとする矛盾を抱えた状態。不適応をおこすのは自然の摂理。子供はもちろん大人の社会も同じである。特化・プレミア・付加価値が当たり前の時代。素朴で人の傍らに寄り添う普通のあじわいは消えてゆく。上級志向の風の中もがくのは多くの一般庶民なのである。多くの子供は、当たり前だが、ごく普通の子供であって、素朴で汚れないものである。多数であるその子供達を階段を飛びぬかせてまで引き上げる必要性に疑問ばかりを感じてしまう。普通に経験すべきことを普通に感じとりながら、階段を抜き飛ばすことなく実感をもって生活させることに我々は臨むべきだ。
 「ONE PIECE」という漫画が、どのような結末になるのか?その主人公ルフィが「海賊王」になったとして、それはどんな「王」なのか?いまさら「海賊王」という称号を得ましたヨ チャンチャン!では、終われないのは明白だろう。富や権力や地位とはかけ離れたところ、つまり人間の心の在り方の中に本当の「幸福」があると気付くはずである。仲間も敵も自然も全て切り離せない営みの中に生まれいずる「幸福感」。自分だけのことを考えた時には、決して生まれない「幸福感」。そんなものであってほしいと思う。
 漫画やアニメの中に「失敗しながらも何かに気づき成長する主人公」の姿が描かれることが多い。等身大のキャラであればあるほど愛着もわくだろう。多くの人は気づいている。間引く社会の中にあって、間引かれたそこにこそ大切なものがあったのだと。
 未来を担う子供たちをプレミア漬けにして、骨を抜くようであってはならない。軸がぶれてはならない。
 人生は関数に似て不思議であると思う。何かを施し、何らかの作用を経て、結果を戻す。自分が行っている仕事なりが、世のため人のためになっているという戻り値が返されればいい。しかし、関数そのもののエンジンの中でどう作用させたのか、かけ離れた戻り値や自分だけの都合に導く戻り値を構築してしまうことが多いようだ。ブラックボックスゆえになんとでもしてしまえるのである。物語にしろ、社会にしろ、この関数の組み立て方のところに人の大切な部分があり、楽しみもあるのだ。学ぶということをこれだけつまらもの、辛いものにしてしまった日本とは何なのだろうか?
 普通に奇策を用いず、上ばかりを見ず、自分のいる場所からものを考察することが求められよう。青島刑事の言葉のように「事件は“会議室”で起きてるんじゃない! “現場”で起きてるんだ!!」。企業経営ならば事件は「会議室」で起こっているのであろうが、全てを企業にに当てはめてしかるべきものではない。ましてや教員に会議はない。議論の場はなく、伝達・指示される場があるだけである。あーでもない。こーでもない。と、知恵を絞る関数組み立ての機会は完全に奪われてしまった。学校に来る生徒たちも学校で働く教員たちも、その場所に、向上心はもちつつも、心潤う有意義な楽しめる関数作成の空間は果てていくのかもしれない。学校をこれ以上魅力のない場所にはしてはならない。

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