支配と価値について

 歴史はその時代のカリスマ性の高い権力者によって刻まれてきた。彼らの多くに共通するものとは支配しようとする観念である。手に入れた権力は、より強固なものとするために肥大化していくが、やがて反発を生み倒される。このスパイラルというか、無限ループの中に歴史が顔を覗かせるのである。

 「どこに価値を見出すのか」という人類の命題は、未だ終着点が見えず混沌としている。権力者は周囲の国々と上手く、賢く、損することなく(個人としては世の中を上手く、賢く、損することなく)渡り合うことこそがスキルや力と感じているようだ。たとえそれが、多少の犠牲を伴うことや不誠実であると感じてながらも、「こうするためにはしかたがない」という言い訳を設けて正当化していく。どこかで己の都合のよい方へといいようにすりかえているのである。

 教育者(教師)とて同じで、自分の思うとおりに生徒を動かすことができるのが、教師としての力量、スキルと考えている向きもある。~~させる力という使役というか支配の構造の到達点は己の顕示欲を満たすための己を向いたところにあるといえよう。生徒のためと言いつつも、実は自分のためという己向きであることも多いようだ。たしかにそういったカリスマ的要素も教育者としての一つの力であり、魅力でもあろう。しかし教師としてそのスキルを有したらそこが終着点なのか?自分が満足しているだけに過ぎないのではないか?結局は自分のために生徒をはじめとする周囲を都合のいい道具にしてはいないか?そんな疑問が浮かんできてしまう。終着点はもっと先にある。己ではなく相手が自主的に創造できる力を得た時であるはずだ。

 思いどおりに人や世界を操ることに価値観を感ずる人は少なくない。そして負のスパイラルに陥り、混沌とした日々を送ってしまう。損得にこだわり、儲けることが資本主義のあり方と信じ、合理化によってさらに形骸化され、マニュアル化され本質を見つめる意識をも失われゆく・・・・・ 。

 格差社会と言われて久しい。一握りの成功者とそれに追随するもの達が作り上げた社会なのだから当然の結果ともいえよう。悪魔の声はいつだって響いている。「みんなが幸福じゃ自分の幸福感が薄れちゃうでしょ」と。


 上記は、宮沢賢治作「オツベルと象」の授業をしてみて感じたことである。

 オツベルは機械化された農場のオーナーである。多くの農民を働かせ、その頂点に立つ親方的存在である。ナレーター役の牛飼いが「オツベルときたらたいしたもんだ」言うように、ある種のカリスマ性を持った人物もあり、儲けることになによりの価値を感じている。知恵を働かせ、いかに小さな投資で大きな利益を得るか、それが彼の関心事なのだろう。

 ところで、そんなオツベルは悪人なのだろうか?ほめられたものではないが、そんな人間は現代にもたくさんいる。つまり、その世が、その時代が、生み出したひとつの人間の姿であり、オツベル自身も悪いことという意識などはさらさらない。あたりまえのごとく自らの価値観にしたがって働いているだけである。

 オツベルの最期は援軍の象につぶされてぺちゃんことなる。童話である以上、リアルな描写は当然避けたのだろうが、なんともあっけないのである。勘ぐれば、それほど中身の無いうすっぺらなことに頓着しているのが人間なのだと言っているのかもしれない。

 一方白象は、オツベルのところで働き、徐々に体力を奪われて、やがて動けなくなる。白象は森の象の仲間に手紙を書く。「ぼくはずいぶんめにあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」これを読んだ森の象達は「オツベルをやっつけよう」という議長の象が高くさけぶのに呼応して一斉にオツベルのもとへ向かう。やがて、白象は仲間たちに助けられ、”「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。”となる。白象の「さびしいわらい」に垣間見える状況が重要である。助けられたのはうれしいが………。このさびしさの内容を吟味していくと「もっと(オツベルのもとで)働きたかった」という声が聞こえてきてならない。たしかに「助けてくれ。」とは手紙を書いたが、「オツベルをやっつけてくれ」とは書いていない。「オツベルをやっつけよう」と解釈したのは仲間の象達である。自らの思いが違う形で曲解され、目の当たりにされてしまう。そんなさびしさと見て取れるのである。オツベルも仲間の象もみんな悪いやつではないのだが、どこかで屈曲し何らかの行動という形をとって返してくる。相手の思いを何らかの枠組みにあてはめて「こうなら、こうだ」と型にはめ込み、理解しようとするのは、現代でも同じである。

 働くことが好きで、純粋無垢で、疑うことを知らず、曲解することのない素直な目を持ち、周りから「お人よし」とか「でくのぼう」と言われようとも、(借り物やマニュアルといった型ではなく)たとえ枠から外れていようとも、自らの内からにじみ出てきた思いをよりどころとして生きよう。自分⇒人間⇒自然⇒地球⇒宇宙。価値観をどこに置くべきか、宮沢賢治に問われている。   END

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