藤原定家の凄み

その2 「藤原定家のすごみ」とは

以前光村ではない教科書(教出3年)を使っていた際、「新しい博物学の時代」という説明的な文章の教材に出会った。内容としては、「かに星雲の超新星爆発の年代という、いわば理系の事象の時期の謎を、藤原定家の書いた『明月記』という文系の書物が解き明かした」というものである。その説明文の中に「以来定家は、五十六年間書き続けた日記のいたるところで、さまざまな天文現象を書き留めています。そして、自分が見たこととともに、それと同じような天文現象が過去になかったかどうかを丁寧に調べて、書きつけているのです。定家は著名な歌人ですが、朝廷の役人が本職であり、前例を調べるのが習慣となっていたようです。」とある。ここに役人としての「定家」の冷静さ、コツコツとまめな真面目な姿が浮かび上がってくる。
ところで、歌壇における「定家」はどんな顔をしていたのだろう?
と気になった。新古今和歌集の選者の一人であり、おりしも「明月記」には、山荘の襖に張る秀歌百首を選定とあり、小倉百人一首の編者とされる定家、まちがいなく当時において、第一人者であり、その代表的歌人としての姿はどういうものだったのか。
役人定家のような、几帳面でマメで真面目な歌人だったのか。

課題の掘りおこしにあたり、2年の終りに「新しい博物学の時代」を行っておく。
3年になって、和歌を学習する際に思い起こさせる。

授業としては、万葉集の素朴かつありのままの風景や心情にあてつつ行い、古今和歌集へ入る。

古今和歌集 紀貫之
◇人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける

この歌については紀貫之が昔よく通っていた宿舎の主人に「お見限りに(心変わりに)なられたのかと思いましたよ。人の心は変わりやすいって言いますからね。」というような嫌味に対して返した歌と説明し、「人の心は変わりやすい?さあ、そんなことはよくわからないが、なじみ深いこの地に咲く梅の花は、昔のままの変わらない香りでにおって私を迎えていますよ。」と、相手の攻撃をひらりとうけながし、強烈なカウンターでぐうの音も出ないほどのノックアウトを演じたものと解説する。「久しぶりの訪問を梅は変わらぬ気持ちで快く迎えてくれているのに、あなたは何ですか、嫌味で私を迎えるのですね。変わってしまったのはあなたの方なのでは?」といった状況が浮かぶ。この切り返しの妙、機知に富んだ手法のうしろに紀貫之の「どうだ」と言わんばかりのどや顔も浮かんでくる。平安歌人にあってその第一人者とされる紀貫之。他の歌人には真似できない第一人者としての誇りさえ感じられる。

さて、時代は鎌倉へと移り、新古今和歌集。その良さを生徒がとらえられるか、毎回難渋する。特に藤原定家の歌についてである。西行は理解しやすい。

新古今和歌集 西行
◇道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ち止まりつれ

「しばし」という短い時間と提示しながら、豊かで心地よく奥行きのある長い時間を表現している点は、生徒も「すごい」と納得する。

さて定家の歌であるが、
◇見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

生徒はこの歌のどこに良さを見いだせるだろうか・・・・。
見渡すと咲く花も色づく紅葉とてないことだ。粗末な小屋(苫屋)だけがある秋の夕暮れよ。
三夕の歌の一つであり、名歌とされるこの歌に、生徒は「何にもないのがいいの?」とか「殺風景!」といった印象を述べる。
わび・さびや枯山水に美意識を感じない私を含めた多くの生徒が、普通に理解に苦しむところであろう。
「無の境地」とか、実感のともなわない理屈で押し切ることができるかもしれないが・・・・・・。何より「藤原定家の歌のどこがすごいんですか?」という質問には答えきれていない。
思うに定家自身も「何にもないのが、最上の美」と言うだけで、第一人者の面目をたもてるものかという疑問さえわく。
定家には後鳥羽院との歌をめぐる確執もあり、その頑固さは常軌を逸するほどであったともいう。歌に関しては、折れることを知らない第一人者としての顔がそこに浮かぶ。後鳥羽院をしてもその堅固さを曲げられぬ定家の歌に対する理念とは何なのか?
そこで、定家の「すごさ」(ほかの歌人が真似できぬところ)を見つけさせる。ひきあいに出すのは次の歌である。

◇駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

馬を留めて袖に積もった雪を払い落とす物陰とてありはしない。佐野の渡し場(佐野の辺り)の雪の夕暮よ。
生徒からは「白だけじゃん」「やっぱ殺風景!」という反応がかえってこよう。
「駒とめて」の歌については、「佐野のわたり」を最近では佐野の周辺(あたり)と解釈するむきも多いようだ。どうであれ、ここまででは定家の「すごさ」を実証できはしない。次にこの歌は「本歌取り」の歌であることを伝え、本歌は万葉集「苦しくも降り来る雨か三輪が崎狭野の渡りに家もあらなくに」を紹介。
定家の「駒とめて…」の歌と本歌「苦しくも…」の歌を比較し何が違うか考えさせる。すると、本歌にはうかがえる、家一軒ありもしなくて、これからどうしようという不安が、定家の「駒とめて…」の歌には感じられないどころか、「これでいいのだ!」とさえいいたげだと、生徒もたやすく感じられるであろう。
「殺風景こそ素晴らしい」ではすまされない、もっと奥深い何かを感じずにはいられない。

《仮説》
①「駒とめて」の歌は本歌取りの歌でもあり、定家本人はそこにいなかっ  た=仮想の歌
②「見わたせば」の歌も実景の歌ではないかもしれない。
③定家の脳裏に浮かんだ情景(絵画)を歌にしたものではないか。
④「わたり(渡し場)」「苫屋」は絵を鑑賞する側が目を留めるのに必要 なオブジェではないか。

万葉集が見たままの情景をありのままに歌に描いたのに対し、定家は頭の中に浮かぶ空想の情景を、絵画としてではなく、歌で表したのではないか。その試みは、ある意味、前衛芸術(シュールレアリスムや抽象絵画)的な斬新さがあったのであろう。その難解な斬新さが、のちに明治の文人からの破壊排撃をうけることともつながろう。

「想像の中に描き上げた枯山水の情景を、歌に興した」のが、定家とすれば、ほかの歌人には真似できない、おのれのすごさを示せ得る新たな試みだったと言えるだろう。
何も書かれていない画用紙をもって、殺風景が成り立つはずもなく、歌心の境地へ誘引するオブジェ(見る側が目を留める実体)は歌の中にすでに施して(配置して)あるとでも言いたげに思えてくる。
枯山水が庭園における芸術のひとつの表現のあり方とすれば、空想上のさびを伴う絵画を、歌において表現するという前衛的斬新さが、何とも、その凄さを表していると思えてくるのである。

ー 空想の絵画歌人 藤原定家 ー

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