伏線 布石 暗示するもの

 体験・体現したことというのは、どこかに痕跡を留めるものである。
 たとえ今現在にあっては断片にすぎない意味の見つからぬものであったとしても、のちに大いなる繋がりをもつものとなって表出されることがある。脳裏にかすかに宿していたそれは、ある偶然を伴って開花するのだ。しかし、それがまったく頭の片隅にも残らず、消去されていくものだったとしたら、永遠に封印される以上の淋しさを感じてならない。
 多様化の波におされてか、習得すべき事柄が詳細かつ多岐にわたる現代社会。いろいろな障害をのりこえるすべ(スキル)が必要とされる。しかし、その実像はと見ると、個人が習得いや体験できる事柄なんぞ高が知れているため、自分が得意とする範疇以外は他に任せる仕様で成り立っているのだ。互いに苦手とする部分を補完しあう仕組みとみれば聞こえはよいけれども、自分の得意とするだろうところまで手離し、代行者に任せてしまう道筋となってはいまいか。つまり、依託(委託)体験でも自分の経験値として数え、疑似体験であっても立派な体験であるとしていると思えるのだ。煩わしく忙しい世の中にあって、自分の範疇外とする部分を支えてくれる諸々はありがたいものだが、えてして己の範疇とするところまでも、外部に任せて、自ら考えず、体感もない状態に置いてしまっている。それでも「支障が出ないならそれで充分、都合よし。」に人の思考がながれてはいないか。
 体験を介さずして組み立てられる理論をはじめとする諸々。そもそも体系としての学習とは自分が介さぬところで種別に積み上げてきた知識を学ぶことがほとんどであったから、昨今の教育の情勢からみれば、今更体験云々と言ったところで別段真新しくも映らないだろう。ただし、体験にあたらぬことを体験と称して施しているとは言えそうである。体験とほのめかす多くのものが乱立するが「こうすると効率的だよ」「こうすると簡単だよ」「こうすると味わえるよ」という How to に終始し、その真意を伝えることは稀だ。関数の入口に「知りたいこと」という引数を入れると、出口にあたる「答え」という戻り値が瞬時に出されることを称賛する世の傾向なのだ。いつしか人は、入口から出口までの間にあるブラックボックスといわれる処理の過程を体現しなくてもよいかに捉えてしまった。”思考錯誤し、考え、処理する”最も大事なステージをすっとばしてしまったに等しい。
 喜びであり、悲しみであり、楽しみであり、辛さであり、ひらめきであり、忘却であり、人間くささの渦巻くこのステージでの体験が次への扉を開く鍵となる。ブラックボックスに蓋をして封印してはならない。そこでかいた汗は無味乾燥・無色透明ではないと言いたい。発見や発明・発想というものは、いきなり自分のところに降りてくるものではない。言い方を変えるならば、いつも降り落ちているにもかかわらず、それに引っかかる経験を有しておらず、滑り落ちるように見過ごしているだけなのだ。だから、ブラックボックスでうごめく人の営みは何にもまして大切なのである。良きにつけ悪しきにつけ経験したことからのみ物事の真髄を学ぶことが可能なのである。
 伏線にも布石にもならない体験であってはならない。思考錯誤の中で潜在意識にこびり付いて残るそれを、何気ない日常で確かな経験として活かせるようにしていこう。人は生命維持装置をつけて生かされるルーティーンから能動的に生きるルーティーンへとリチェンジしていかねばならない。失敗であっても確かな経験であった種として残っているならば、いずれひらめきによって花開くこともありえよう。
 2022,8,12

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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