Vol.50 掃き溜めとなる学校

 マンパワーを発揮しなくてはならない場所とは無縁のところでは、いっそう効率化・合理化を重視し、人の感情が入らなくなる形でシステム化・電子化が進み、当局者は*オツベルのように「ラッパみたいないい声で」ああしろこうしろと指図して、つまり通達を出してお役御免と思っている節がある。
 一方当事者である学校職員は「学校の新しい生活様式」という縛りを加えられ、通常の業務を上回る労力を強いられている。
 前号でも書いたが「マンパワーが足りない」のだ。多岐にわたる注意点や業務を被せられてそれを行うのは当事者である我々なのだ。背負う課題は処理できぬほどに溜まり、処理する機関は変わらぬまま。まるで掃き溜めの様相。事象に対峙して、処理する当事者(マンパワー)の悲哀をどれだけ当局は想像できるのか?マンパワーとかけ離れた次元での改善策や施行や追加項目の提示にばかり重きを置かれ、また忘れられていく当事者。マンパワーは人や事に対峙して発揮されるもの。人に対峙することない当局者はうそぶくだろう「だって、それが俺たちの仕事だから」と。無機質な処置で済ますことに意義があるようにも見えてくる。。コロナで言えば、保健所が処理できる人数には限りがあるだろうし、減らされた保健所、そのうえでの対応。医療機関も通常の医療業務とコロナ、人員もスペースも不足する中、ぎりぎりでやっている。
 「努力した結果平和がある」ならいいのだが、「平和であるということは努力しているということだ」といった逆引きの論理がまかり通るご時世。縦横無尽に論理が飛び交い人を惑わす。

 理屈付けしないことには、前に進まないのが人間。「ああであるから、こうするべきだ。」「これは、不測の事態ゆえに困難だ。」「町中に熊が出るのは危険だから排除しろ。」「少年であれ、おもちゃであれ、銃を持っている黒人だから射殺オーケイ。」と責任転嫁や正当化へと思考の構築が向かう。犯人捜しと正当性という理屈を付けていくわけだ。こんな理屈付けが当たり前となった理屈漬けの社会に文化は生き続けるのだろうか?
 理屈というパズルの図式ばかりを構築し、張り子の紙がはがれても君臨する理屈という骨組み。折り重なる理屈の網に、人の思いや文化は寸断・停滞し息を失うだろう。砂漠の中の廃墟のような未来が浮かぶ。

 論破できれば、勝ちなのかい? 言いくるめられたら、是とするのかい?
 確かに言葉や文章は思いを理屈付けるための導線となる。誰の何の思いかも漠然とした形で頭ごなしに理屈から振り下ろされる昨今のそれは、勝ちでも負けでもなく、また決して「是」でもないのは明らかだ。

 教師は何をするべきか。それを考える時、いろいろの考えが挙がるだろう。「世の中の規則というシステムを教えるためにある」「学力というシステムを教えるためにある」などと。もう一度原点から思い返してみよう。我々教師が実際に「対峙」するのは、教育というシステムでも業務でもなく子供たちなのだと。子供たちが育む豊かな未来文化を花咲かせるために我々はいるのだろう。文化には息づく空気がある。臭いも味もない形骸化した枯れた空気に芽吹く文化は無いと思う。自分たちで善しとする空気を感じ創り上げることを補佐してあげるのが我々の役目であろう。においたつ文化を創るためにいろいろの空気に触れさせながら自分たちの空気を生み出していかせればいい。
 その局面に対峙する時、何を規範とするかが問われている気がする。対峙する身の辛さは先に述べた通りだが、それをも空気として子供たちが感じとれる未来であってほしい。   2020.9.17

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