頭でっかちのホワイトカラー

 今世の風潮は誰しもがより楽で安全な職業を望むホワイトカラー一色ともいえる。教育もそれに追随している。もしも、全ての人がホワイトカラーの仕事に従事していたらどうなのだろう。極端な例から言えば、テレワークに代表される非肉体労働に従事することを望む人々で溢れかえったとき、もう何もできないことを痛感するのは明らかだ。
 ホワイトカラーは上品さをアピールしつつさらなる高みを目指す。政治家を始めとする彼らは、機構やシステムや法律を作ることはあっても、それに直接実践従事することはない。彼らの作ったそれに従事するのはブルーカラーの人ということになる。「このような機関を設けましたのでよろしく」「実態に見合う新たな法を作りましたのでよろしく」「設計図を作りましたのであとはよろしく」 現場で実施する人が多数あってこそ成り立つ機構の数多なのである。猫も杓子もホワイトカラーの土台で思考することが当たり前となってしまった。ブルーカラーであろうと、襟(カラー)があるだけましでもあるともいえるが、襟のない人々を含めた彼らがあってこそ成り立つ機構であり、体系なのである。病院をたくさん作ったとしても、病床を増やしたところで、それに従事する人がいなくては成り立たないことは経験済みなわけだ。それでも、機構という名のメカニズムをさらに高いところへ押し上げる理論建てへと邁進している気がしてならない。格差が拡がるのは当然の成り行きと言えよう。階級としての格差もあるが、なにより意識の格差はそれを上回る勢いで隔たっていく。下々をないがしろにして高みをめざす施策は上層部を擁護するものとしてのみ機能する。整合性がない。なによりバランスが悪い。
 テレワークが長じて出社した場合は出張扱い!? さらにワーケーションやらと働き方が変わりつつある情勢。しかも世間はそれをよろこばしいこととして受け止めている傾向だ。テレワークやワーケーションが可能な業種からすれば、潮流に乗った感を得てすがすがしくもあるだろう。リフレッシュを超えたリラックス感から新たな発想がひらめくものなのかもしれない。でもそれができるのはほんの一角であって、多くの働く人の指標にはなりえないだろう。自分が店を持ったとしよう。オーナーである自分はテレワークやワーケーションが可能であるやもしれない。しかし、現場である店には客と接する従業員が複数必要なのである。誰もがピラミッドの頂上で活躍することはできないのだ。客と接する営業にかかわる部署や他業者がなくてはならないのである。こうして、格差が生まれ溝はさらに拡張していく。教育の世界においてもコロナの影響もありオンライン授業なるものが取りざたされた。学びたいことの外郭を学ぶにあたってはその方が効率的でよいこともあろう。賢い子にとっては無駄を省いて知識を得られるので好都合かもしれない。片や、それほど賢くはないとされる子にとっては一方的な羅列に等しい無機質な幾何学模様の森を彷徨うことにもなる。
 コミュニケーションツールとして使われるSNS。企業にとっても有用なツールであることは言うまでもない。利点をとことん突き詰めて汚点を払拭するようである。学校がそれに右に倣えとはいかない。塾であればある程度なせることかもしれぬが、コミュニケーションを図り学ぶ基盤となる現実のシーンは学校にある。SNSでもコミュニケーションがとれ学べるではないかと言われるが、同空間に漂う空気感を共有することは難しいだろう。現実の活きた生活空間に発生する葛藤や発見を傍らに感じつつ学びも生活も創造していくことが格差を縮めなくしていく唯一の方法だと思われる。しかし、ここまで早急に進めてきたIT・AIへの移行依存傾向がおさまるとは思えないのが辛いところである。権威を有すればそれをゴールとしてしまう結果、実態に身を置く多くの人々の生活が置き去りになりかねない。
 誰もが為政者や上級者でいられることはありえない。たとえ上級者になりえたとしても下位を見捨てない意識をつないでいくことだ。
  2022.7.19

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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