区別?選別?差別?

 とかくこの世は二者択一のどちらであるかを迫られる。区別されAやBやC…と分けられるまではよいのだが、そこに序列が絡むと、選別されたり差別をうけたりにつながるわけだ。序列を付けて管理するのは、人間の本能なのかもしれない。
 また、あえて反目する敵を作って、凌駕し、勝利という権威を誇らんとする傾向もある。反目する必要などはじめからないにもかかわらずだ。それでも近いところにいる弱いライバルをこさえておいて、それを蹴り落とすように成り上がらんとするのはなぜなのか?さらにそのしょうもない間隙を突いて利を得んと目論む連中も現れる。絡み合った状況下ではっきりとした結果として認識できるものは勝敗だけとなる。勝てば官軍。その論理がいつの世にも漂っているのだ。生き残るためのスキルと称して施される諸々もその類に漏れないだろう。なぜなら結果としての勝敗を見込んでそこに介入しているに過ぎないからだ。理想や真理や本質はもはや眼中にない。勝つか負けるかが重要な焦点となってしまう。日本社会に限らず国際社会も、言わば世界の思考がこの呪縛にとりつかれて逃れられないのだ。
 敗者や弱者は辛酸をなめた末、諦めの壺に封印される。このルーティーンを若者も子供も知らず知らずのうちに歩まされていく。だから教育は踏みとどまらなければならない。社会の流れの一環と位置付いてはならない。差別してはならないとされながら、差別を容認する状態にある現状(人の指向)が物語っていよう。戦いの歴史が人類の、はてまた地球の歴史なのか。皆の幸福を見いだすその方策をさぐることを鼻から考えずに忘れていまいか。「皆の幸福」を目指すという教育の理念を基盤にすえていく必要性をあらためて感じている。自分さえよければいい。他がどうなろうと関係ない。といった無関心な現状の基盤が選別や差別を結果として生み出してしまっていると感じている。差別やいじめはなくならないといった諦めに裏打ちされた論理が理想を朽ちつぶしていく。このルーティーンから抜け出すステートメントを構築することが望まれる。文字通り声明すべき事柄でもあろう。

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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