Vol.18 若者に告ぐ-聖域としての学校ー

 若者に告ぐ  -聖域としての学校ー

 ここに10層構造(10階建)のビルがある。ピラミッド型をしたそれは、上へ行けば行くほど、自らの思うがままになるという。ある者は、自分の夢をかなえるべく、ある者は、現状を打破し改革するために上を目指す。ある時「初心忘るべからず」というかたい意志をもって頑張ってきた者が、ふと気が付いた。「これは、魯迅が『故郷』で言うところの『今、自分は、自分の道を歩いているとわかった。』と同じではないか。」と。今自分のいる5階という位置。その層が自分のフィールド(レイヤー)であり、基準であると実感した。目指すのは次の6階。その時、彼は下の階層を顧みることはなかった。なぜなら、今いる5階が彼のベースとなっていたからである。いつのまにか、今いる場所が当たり前の標準ととらえてしまっていたのである。見ようと思えば見えたであろう下の層の様子を、見ないでいることが習慣となってしまった。戻ることなど考えにも浮かばない。そして彼は、目をつむって(とりこまれてしまった自分を意識しつつ)階段をまた昇り始めた‥‥‥。

 保護主義と一国主義 グローバリズムとナショナリズム どちらにしても経済的なフィールドでの話であって一般の庶民と呼ばれる人々にとっての生活というフィールドでのこととは感じとれまい。また資本主義や共産主義・社会主義といったものも、経済的なフィールドの基盤にあるものだから、やはり一般の人にとっては実感の伴わない雲の上の仕様となっている。これに「民主主義」という言葉がある意図をもって絡めつけられ、複雑に増殖していく。資本主義=自由主義=民主主義であるとか、共産主義=独裁制というように、政治的概念とあいまって誤った認識を造り上げる。「似ていて非なるもの」をそれとなく人の認識に絡めつかせ正義として覆おうとするのはなぜなのか。
 他にも、ガバメントでありながらそれをガバナンスとすりかえて治めんとする状勢もあげられよう。組織に所属する者が関与し、合意を基に意思決定を図る統治のシステム。さしずめ統治であるのだから上位の者や経営陣が被雇用者や部下を強制管理する方法、いわゆるガバメントと同意のものとして認識され使われている。多くは関与する機会も同意・合意もないままに、一方的に上意下達の方式で押しつけ、丸投げする形で統治せんとする図式となる。結局、上位の者が望むだろうことを忖度させ、その上位の者が責任を負うような羽目にならぬよう上手いことやってよと強要させられている気がしてならない。管理主義の成れの果てとでも言っておこう。
 志高く、始めたこと。希望という名の夢を描いたこと。そんな理想を笑うものがいる。たとえ現実がどんなに理想とかけ離れたものであっても、理想ばかりを追っていては生き抜いていけないと、感じてはいても、それを当たり前とする世の中を黙認してはいけない。どんなに青くさい理想主義だと言われようとも、それに屈してはならない。なぜなら、その理想とするところが、誰もがの「心のよりどころ」なのだから。理想とする姿を保って活きているものがあるからこそ、皆は救われているのだ。存在する者すべてが「悪人」だとしたら、「心のよりどころ」を失うであろう。わずかでも「善人」と思われる者や、自分の心の片隅にある「善良な心(良心)」があるからこそ、救われているのである。
 病院や学校がそんな理想を追求する場であってほしいものだ。人間の精神のよりどころとして、決してゆるがず、侵すことのない、利権や出世、損得といった邪念の及ばぬところにある真実を紡ぐ聖域であってほしいのである。
 人間が顧みることに目をつむり、現状こそが基盤であるとしてきたものに自然破壊がある。誰もが危ういとは思っていながら、現状からの退行を決してしない。今いるフィールドは確実にあるものとしてしまうのだ。

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