妥協するしかないという方向性にメス

 世にはびこる意識。「そうするしかないか、何か違う気がするけど」「ここまで来ちゃったんだから行くしかないよね」「核心にはほど遠いけど、その辺で決着付けておこうか」。打算妥協が渦巻くのである。本来、打開・解決を図るために行う妥協が、あきらめに包まれた状態で表出してしまうのである。ところが、醜いことに、そこを利用し、そうあるべくようにしむけ、巷の一般庶民に流布する流れにまでなっている現状なのだ。
 教員として長年勤めてきたが、振り返ると、何かしでかしてしまった生徒を指導するとき、その事象については指導したが、その生徒の闇にまで迫れたケースは少ない。もとより学校も忙しいわけで、個々の指導に時間をかけてはいられない側面はあるにせよ、ある意味「妥協」して進むしかないレールの上を走っていたのである。本来ならば、闇を払拭し(真っ白な状態にし)、自ずから正しき道を模索できるところまでもっていければいいのだが、途中下車させたに過ぎない指導が早々道を改めることにはつながらず、同じ過ちを生徒が繰り返してしまうことも多々あっただろう。
 自分が理解し納得して行う妥協であれば、それが問題を引き起こすことはおそらく少ないだろう。多くはいつのまにか妥協せざる状況に追い込まれ、理解も納得もないまま妥協していることなのだ。
 現状の妥協は垢(あか)のようなものである。垢を残して進む諸々を見ればわかるとおりだ。政治・経済・宗教・環境・教育・平和・安全・紛争・疫病・生活‥‥。垢は溜まる。我々は垢の中を縫うようにして生活している。当然流れは悪い。時折、一か所に溜まった垢が弾け、大問題となって表出する。悪玉コレステロール(LDL)同様、動脈硬化から梗塞や出血を引き起こしてしまうのである。世の悪玉である垢。さらに、この垢を利用してさらなる垢を積み上げんと目論む経済がある。それをも我々は妥協していかねばならぬのか。「妥協」が本線とは違う新幹線もどきの道筋をも示している。「妥協こそが現世をスピーディに快適に生きる手段なのだ。」と。
 あきらめのない、垢を創り出す前のターミナルなる出発点に戻り、自分の感覚や思考に基づいて道を定められる社会が望まれる。垢の中を進む閉塞した環境で文化が育まれるとは思わない。また、苦い環境下を超特急よろしく見ないで進む輩が創る文化は、文化とはほど遠い。それは、その時ばかりのことであって、流れのよい潤いのあるものとは裏腹の簡易で形式的な張りぼてにすぎないからだ。世の流れとは逆行するが、普遍的かつ個性ゆたかな文化を創造できる環境を整備していくことが急務といえる。

P.S.
 統一教会がらみの件が問題となっている。この際宗教団体そのものをつぶして行くべきだとの声もあがっている。霊感商法など庶民の自由と尊厳を奪い苦しめたのだから、メスを入れられても当然のことかもしれない。ところで、安倍元首相銃撃の事件が無かったなら、元統一教会のことがこれだけ再クローズアップしただろうか。いや、過去の事件として表面に上がることもなく、その後も現在に至ってもマインドコントールされて金を搾取された信者や関係者がいつづけただろう。同じことが、オウム真理教にも言える。地下鉄サリン事件という無差別テロが無かったなら、マインドコントールされた信者を救えることはなかっただろう。共通点は、「テロ」。テロ行為と関連あるとみるや本腰をあげるのである。何もなければ、庶民が、信者がどれだけ辛い思いや環境に置かれていたとしても、目を向けることはないのである。告発のための大儀を得るためといった理屈もあるだろうが、警察と同じで確たる事件としてあがらない限り摘発はできないものなのかもしれない。
 災難・事件を未然に防ぐのは難しいことだとわかる。この社会の思考・思想・信条の格差を正すにはいったんゼロベースにもどすしかない局面を迎えている。

2022.9.1

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です