Vol.28 AI化社会と教育

AI化社会と教育
 言葉としては正しくないだろうが、感覚として「逆引き」の世と感じてならない。それは、どういうことかというと、aという兆候が表れたからこれはAであると、症例に照らして診断する。これは「順引き」とでも言っておこうか、オーソドックスな流れである。しかし、この後、a⇒Aであることが決定的な事実となって己の中で確定してしまう。そして、Aであるという前提となったところから「逆引き」が始まる。「Aであるなら a′や b の様子が現れるはずだ」といった具合に‥‥。医者ならば、大量の症例からある程度有効と確定された治療法や薬剤で治療するのは当然ではあるが、それも万能ではないはずだし、被検者(患者)に合うかは施してみないとわからないところも多いだろう。そう、教育の現場とて「逆引き」が当たり前となってしまったのである。― 一部を見てあるものと限定する。あるものであるのだから、規準に沿った決められた措置をとる。―
 なんで行政は、教育を一律の方向へ押し込もうとするのだろう? おそらく「データこそが命」というある意味正しくはあるが間違った認識を持ったゆえと思われる。「データによってもたらされた結果こそが有無を言わせぬ大切なことなのだから、教育の世界でも例外ではないのは当たり前なのだ」というくくりである。
 アンケート(調査)にも逆引きとみられることがある。例えば、「Q.教師という仕事に生きがいややりがいはありますか?YES か NO でお答えください。」と問われたとする。私としては、答えようがないのだが、YES か NO かで答えることを強要される。アンケート結果に恣意的なものがはさまり取り扱われていくとしたらとんでもないと思うからだ。教師という仕事に間違いなくやりがいはあると思うが、今自分にとってやりがいのある仕事となっているのかというとNOである。集計者がYESが多かった時に、「先生方の多くは、今の教師の仕事にいきがい、やりがいを感じて従事している。」なんて受け取られでもしたら冗談ではないからだ。 逆引きの法則でいけば、「教員は満足して教育活動に従事しているので、働き方改革の必要性はないかもしれない」となるわけだ。
 そんな矢先、6月20日(木)の朝刊一面に「教員 進まぬ改革」「中学校仕事週56時間で最長」という見出しでOECDの調査結果が掲載された。朝日新聞3面には「学校現場 手いっぱい」の関連記事が載せられてもいる。「日本の先生は教室で指導するほかに、たくさんの仕事を負わされている」と語ったOECDのアンドレアス・シュライヒャー局長の言がそれである。また、自ら考えるような授業をしているかといった授業内容上の課題については、文科省の担当者の弁として、「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」という新指導要領の根幹部分を教員が「これからの時代に対応した指導ができていない。」として、周知徹底したいと述べている。うわぁ、またそこだけはこと細かに降りかかってくるっていう算段かい!他は何も改善されぬまま、アクティブ・ラーニングがさらなる重いかせとなって(仕事となって)圧迫していくんだろうね。OECDの発してくれた提言を悪用する形で、さらに教員に負担を強いてもいいような施策としていくのかい。
 入れ子になってしまったこの話を外殻に戻そう。もはや我々教員は、逆引きするためのデータづくりに利用されているにすぎないのではないか?そう、その先に見えるのはAI化社会。AIが取り扱いやすい形での教育の在り方(AIが考えやすい形でのデータづくり)へ移行している。どうすれば、効率的かはAIが学習した中で答えは出してくれるだろうし、今我々が主にやらされている無味乾燥な仕事であれば、AIに替えられたとしても、そん色なくやれてしまうどころか、もっと素早く効率的にできるのかもしれない。そんな、AI向けの教育にシフトしてしまった感が強くある。このままいけば、教員の仕事はなくなり、結果「働き方改革なんてどうでもよかったことじゃん!」てなってしまうかもしれない。
 だからこそ、AIでは図れない教育を今我々が考え、実践せねばならないだろう。
 運動会の際、生じた問題に対する対処の中に答えがある。田村Tが言ったではないか。「きまり(校則)の中に親からスマホを受け取って使用することは禁止と入れなければならないのか。決まりとせずにマナーとしてこころがけることが重要ではないのか」と。子供達の自ら前向きに良くありたいという気持ちを肯定しつつ(3年を中心に意欲的に楽しむ雰囲気を産み出せたこと)、「そんな君たちならきまりとして設けるまでもなく、考えていけるだろう。」としめた。「きまり(法規)となっているんだから、○○してはならないのです」というきまりという辞書から逆引きした事柄で律することに何の道徳的な価値があるのでしょうか? 人とコミュニケーションはとれるだろうAIでも、「おいしい・美しい・悲しい・愛しい・何とも言えない風情・空気・共調」など、自ら経験できないものを正しく学習はできまい。それをあえて疑似体験のデータでまかなうのは危険ほかならない。
 自分の墓穴を掘るがごとく自らの首を絞めるがごとく働かされる学校現場ではあるが、AIでは踏襲できない教育をあたたかみをもってすすめていかなければ、末期の水をくむ。

 PS,「平和を学ぼう」日野市は,平和都市宣言以降これといった事業を行ってこなかったように思うが、なぜに今?
 PS,伝統って何ですか?「あの時、ああして、こうやった」ではないはずです。資料や写真には残しづらい生徒と教師の思いではないでしょうか‥‥。教師がAI化する前に。 2019.6.21

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