Vol.34 「豊かに生きる」

「豊かに生きる」

 皆が決められた任務を決められているシステムの中でスケジュールどおりにこなそうとする。任務を明確化しシステムを整えれば、失敗するはずがないというのが、現代の論理だ。MUST(~~しなければならない)風潮の中で息たえだえにもがいているのが、今の学校である。
 勤務状態は明確化するどころか、より闇の中に迷い込み、システムは通られねばならぬ関門のように立ちはだかる。
 何度も言うが、理屈(理論)があって、ものを思う心(考え・情操)が生まれるのではない。感じるものがあって、どうすれば継続できるとか、改善できるとか、考えた時に理屈がもちあがるものである。「豊かに生きる」ためにあれやこれや理屈を積み上げて模索してみたところで、結果としてそのギャップに戸惑うところが多いのは、こんなところに原因があるのだと思う。感性や感覚を、目に見えないブラックボックスのなかで理屈操作し(関数化し)、答えだけが見える形ではじき出される。その答えは、どうやって導き出されたかはもはや問題ではないのである。非常に優秀な人やAIが導き出したものだから絶対であり、正しいのであるとしてしまう。このような風潮の中で、教師や子供たちは、「考えさせる教育」を「考えさせない教育」の手法によって取り組んでいるにすぎないのである。実体・実感の持てない理屈・理論に寄り添うように、あえて仕組まれている気がしてならないのだ。

 その時、その場面で、味わうべきことを、率直に体験させてあげたいものだ。「すてきだ」「いやだ」という実態・実感に沿った価値観や思いを、子供たちの体に流してこそ、子供たちの新たな「疑問」「気づき」「発見」に伴う「考える」というメソッドが産まれると信じている。

 性善説か性悪説かとかニワトリが先かタマゴが先かといったものとは違い、人間は先に理論があって進展してきたのではない。思いがあって、理論を構築してきたものだ。しかしながら、都合よく理論を先に持ち出して治めようとする節がある。そこには人のあたたかい思いはながれておらず、冷たく無機質にそびえ立っているだけである。「希望」すら感じ得ない。たしかに培ってきた知識として、理論を持ち出すことあるだろう。しかし、その知識を常にベースにしてでしか考え方を構築できないならば、今ふいている風を感じることはできないだろう。

 人間は、自分以外の人をはじめ、他の生物、自然にも耳を貸す寛容さが求められていると思う。
 枝葉末節の美学ばかりが、まるで本質をとらえた幹のように語られる現代。
 ”子供が見えてますか?”
 様々な現象や問題が浮上する中で、応急的な処置が求められる現代。やむを得ないことではあるが、応急的な処置が本質であると見間違えてはならないと思う。
 ”あなたは何を見ていますか?”

 人は自分を含めたあらゆるもののために「考える」ことを通じ「豊かさ」を感じていくことがのぞまれる。

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