Vol.49 ダミーを育成する教育

 ルパン3世のマモーではないが、実体不明のいくつもあるクローンそれぞれに、クローンAaにはこれが正攻法、クローンAbにはあれが正解と施している気がしてならない。実体であるAにフィードバックすることなく、「結果がそれでよければいいじゃん」といったふうに‥‥。
 この危うい環境の中で、自分ではない自分を褒められたり、けなされたり。自分自身でも、どれが本物の自分なのか見失う。
 こんなことに付き合わされて学校教育は学校教育の何たるかを、つまり己自身を見失ってしまった。メッキをはって、上塗りして誤魔化すことが、教育の本筋であるとしてしまったのだ。
 経済を観光に頼るようなもので、危うくて見ていられない。実のある「生産性」を復興しなくてはならないのだろう。産業は偏り、生産性の乏しいものにあふれている。一方、農業や町工場は、東南アジアからの技能実習生や産業労働者に頼る有様。上っ面の体裁を整えるだけ方策だけでは無理が来ていることは明らかだ。
 次々に現れるクローン化した新説やキャッチコピーは、その時だけは脚光を浴びるが、数日で???と変貌していく。大阪府独自の指標である「大阪モデル」で通天閣を色分けでライトアップや「東京アラート」でレインボーブリッジ・都庁を色分けしたライトアップがいい例だろう。発出当初は人々も同感・同調して、協力する気運があったが、再開・再点灯となっても、今では、その意識は格段に低いものといえよう。

 「目をひけばいい」「キャッチできればOK」ですまそうとする現代。大切なレガシーの面影さえも、意識の片隅から消滅させられていく。
 ”的を得てない。そっちかい。なんでそうなるの。” これが、感想。受け継がれるべきものはもう現代の教育界にはないのかもしれない。
レガシーは途絶える運命をたどるのだろう。何とも寂しい限りである。諸先輩がたから教わった教育の神髄は砕け散ろうとしている。

 末端の従事者の苦悩を顧みない姿勢は現代の常識となってしまったのか。
 虚像を次々と産み出し、虚像を真実とせんとする今世。一番苦しんでいるところに援助の手が届かない。災害後の後処理はボランティアだのみ。企業は魅力のない後処理などに労力をはらおうとしない。なにゆえ? どれにも言えることだが、マンパワーが足りない。医療も保健所もマンパワーが足りないのだ。綱渡りで運営してきたつけがまわってきたのだ。
 マンパワーを補えない構造。補われることのない従事者に何とかしてもらうしかない構造。マンパワーを発揮する職種を毛嫌いする様相で、デスクワークで生計をたてる職種に傾倒してきた。教育でも農業・工業をはじめとする職業科は数を減らしてきた。汗をかき手を汚し生産するマンパワーを日本は育てていないのだ。利口に要領よく立ち回る術しか教えてないのかもしれない。下働きでもかっこ悪くない、下働きでも下等ではない。職種に序列を求めず誇りを持たせ!そう言いたい。コロナ禍で見え隠れする行き詰り、滞り、いつまでたっても改善されぬ現状。

 どんな人が魅力的ですか?どんな人に憧れますか?
簡単なことです。「自分らしく(その人らしく)生きている人」なはずです。自分の意志を持って生きている人は輝いていますよね。

 演ずることのない信じれる自分を貫いて生きることの重要性を子供たちに伝えていかなくてはならないと思う。憧れの人を真似るのではなく、自分の中にある魅力を見つけることに注視すべきだ。漠然とした虚像ともクローンとも思える指標に縛られることなく、自分を見つめる時間と余裕を与えることが大切だ。自分で試み総括するルーティーンを構築させることだ。待てない自分を感じていても、自分で答えを見つけるべきだ。ダミーに惑わされない信じられる自分を見つけるために‥‥。
            2020.8.23

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