Vol.52 学術会議‥‥学問って何さ

 日本学術会議が推薦した会員候補6人の任命を政府が拒否した問題。
2017年の半数改選の時、定員より多い名簿を示すよう首相官邸が求め、学術会議側が応じていたという。結果的には、政府は学術会議側と調整した上で、安倍首相が105人を任命したのだ。
 おそらくその調整の過程で学術会議側が当初から候補に挙げていた105人におさまる形(政府の意向ではなく)となり問題とはならなかったのだろう。どこかで口をはさむことを望んでいた政府があるとするならば、この前例を繰り返す中で、ある意味定員を超える数名を外すことは政府の当然の任命権であるとしたかったのだろう。あとで掘り返されても、長い間そうやってきましたからという免罪符づくりに見えてくる。ところが菅首相ははやまってしまったようだ。問題意識が風化する前に断行してしまったのかもしれない。
国の予算を投じる機関であるのだから、政府に任命権があって当然ともとれる主旨の答弁をしている。菅首相の見地しないところで進んでいたのかもしれなかったこの事態に任命者としてあたることとなってしまったのだろう。<百歩譲って>
 
 問題点として取り上げたいのは「金を出しているのは国なのだから、国の意向を聞いて(意向に従って)もらわねばならん」というこの国の抱える高圧的かつ潜在的なる思考形態である。
 成果を貴びアカデミックを軽んずるこの国にあっては当然の成り行きかもしれないが、学問は、自由の基盤上で人類はおろか地球上の健全なる進歩に帰するものでなければならないのに‥‥。財界の虜となりゆく社会構造を見るにつけ、未来への希望はしぼむばかりである。政府や財界にとって都合のいい役に立つものが重要な学問であって、その他はどうでもいいというこの風潮は、危険をはらんでいるとは見えないだろうか。
 科学は権力者の恣意的道具となるべからずという反省の思いを有し発足しただろう日本学術会議は、今、岐路に立っているのかもしれない。学問の独立性・自由は守られるのか? いや、現時点で既に独立性はむしばまれ、自由は幻想と化しているではないか。
 「目的や意図なくして学問があるはずはないのだから、一定の目的や意図に導くように学問や研究はあらねばならない」という強迫観念の傘の下で我々は暮らしている気がしてならない。
 もし、学問の独立性も自由もない教育現場で学んだ子供たちが、学問と対峙するとき、学問の独立性・自由の大切さなど考える余地もなく、世の中の恣意的方向に沿う学問に取り込まれていくのは目に見えている。人、一人ひとりが自分の中にあるはずの独立性と自由があることを体現しなくてはいけない。その時「ああ、自分がしてきた学問は、何も独立的でも自由でもなかった。」と気づくはずだ。

 人類には「自由と独立」を求めて戦ってきた歴史がある。骨抜きになりつつあるその概念、そのありがたみを知る由もない方向へと向かう現代。何のために学問をするのか?その命題に「成り上がるためさ、儲けるためさ、兵器を産み出すためさ」と短絡的に答えてしまう近未来がある気がしてならない。
 恣意を帯びることなく地球の未来のために寄与する精神。損得・儲けとは独立した自由な草原に学問がいきづく社会であってほしい。
       2020.10.10

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