Vol.15 自己責任

 自己責任。
 「危険地域に自ら踏み込んだのだからしょうがないじゃん!」「周りに、国に迷惑をかけてんじゃん!」「メタボは自己管理ができないアホのきわみ!」そんな声も漏れ聞こえる昨今。
 学校だって、同じですよね。どんなに真摯に良かれと思って、自分の信念を貫いたとしても、うまくいったって褒められもせず、失敗した折には自己責任を負わされる。そして、「周囲にも多大なる迷惑をかけた。その責任は君にある。」と責任の加重が始まる。

 合唱祭を前に3年生に自由曲のメッセージ性について語ってみた。3組が歌う「決意」は、歴史小説で有名な司馬遼太郎先生が小学校の教科書に書きおろした「21世紀に生きる君たちへ」を受けて、片岡輝氏が書いた詩である。
 司馬遼太郎先生が書いた随筆の一節はこうである。
—————————————–前略———
助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「やさしさ」
「おもいやり」
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
みな似たような言葉である。
これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。
その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。
—————————————–後略———-
    (21世紀に生きる君たちへ)から抜粋

 先生曰く。根っこから生まれ出る感情こそが真実のきらめきであり、人としての尊厳である。そのように読みとれる。
 過去の歴史の中に隠されている人間臭い根っこの感情。「竜馬がゆく」の竜馬もそうであったのだろう。ある意味虚構の部分はあるにせよ、「彼ならば、この時こう感じたはずだ。こうしようと思ったはずだ。」という人の根幹を見据えつつ、あたたかみのある文体で描いたのであろう。先人の生きた思いを、そして未来を生きる我々に、根っこにあるところの真実とおぼしきものを見つめさせんとしたのであろう。「決意」の作詞者片岡氏は、それに気づき、師の志にそわんとしたと見える。
 「聞こえる」は1989年におこった事件、事故、災害のダイジェスト映像を見て「聞こえてきた」声を、岩間芳樹氏が詩に書いたと思われる。「鐘が鳴る 鳩が飛び立つ」制圧から解放なのか、平和の象徴、平和の鐘?。「広場を埋めた群衆の叫びが」やったぞぉ、勝ち取ったぞぉ、民主化の扉が開いたぞぉ、という叫びなのか、1989に当てはめれば、ルーマニア革命!?、「広場を埋めた群衆の叫び」だけならば、64天安門事件!? それにしても続く「歌をください」とは何ぞや?ルーマニア革命は共産党独裁で人々を抑圧してきたという。そこで民主化を望む人々に手を貸した(うまくつけ込んだ)のが、国軍であった。つまりクーデターであったわけだ。共産国家であろうが、民主国家であろうが、社会主義であろうが、資本主義であろうが、そんなイデオロギーめいたことと隔絶したところにある「聞こえぬ声が聞こえてきた」のではなかろうか。言い換えれば、見えないところにあるものが見えてきたのであろう。一般の人からすれば、「何に脅えることもなく心穏やかに楽しく歌って暮らしたい」というのが、根っこにある真実の声であったろう。それがながれる映像の隙間に感じとった(聞こえた)声なのだろう。東日本大震災、原発事故により避難した人たちが、本当に望むこととは何か?—それは、優等生ぶった「二度とこのような悲惨な事故を起こさないようにしてほしい」ではなく、「あのころのもとの普通の生活に戻りたい」というのが偽らざる真実の声だからである。無理なことはわかっている。でも元の生活に戻れるものなら戻りたいと思うのは、ごく自然な思いではないか。合唱曲「聞こえる」に出てくるベルリンの壁崩壊の様子と思しきところでは、「夢をください」と聞こえてきた。森林伐採のところでは、「こだまして木々が倒れる 追われて消えた野の人の悲しい笛が聞こえる 森をください」とあり、これも謎めいている。「追われて消えた野の人」って何?原住民?—これは言葉のロジック(入れ替え)かもとも思える。「森の人」が森を失ったために「野の人」と化すということかい?森の人=オランウータン。とにもかくにも、事件・事故・災害の裏側に隠れている実際には聞こえてはこない真実の声が、岩間氏には聞こえてきてしまったのであろう。
 「決意」にせよ「聞こえる」にせよ「信じる」にせよ「オツベルと象(宮沢賢治)」にせよ「少年の日の思い出(ヘルマンヘッセ)」にせよ、「おくのほそ道(芭蕉)」にせよ、「故郷(魯迅)」にせよ、根っこの部分は同じであると感じてならない。それは、人間というものが、ないがしろにして、ついには覆い隠して誤魔化し正当化するその側面をこじあけて、真実らしき光を感じようとしてきた点である。

 裁判だって、勝った方の主張が真実であり正義とされる世の中。敗者の主張は100%黒とされてしまう。その都度、先人たちが立ち上がり、警鐘を鳴らすわけだ。
紛争地帯で悲痛な叫びをあげる真実の声を届けること、そして、それを我々がくもりなき目で捉えることがまず大切なことではないか。リスクはあるさ。リスクに怯えて、真実から目をそらすほうが、よっぽど卑怯で迷惑だといいたい。
 自己責任!? そんな都合のいい言葉にのせられてたまるかぁ!

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