Vol.59 答えは自分の中にある

 一握りの成功者を夢見ることはかまわない。しかるに、一握りの成功者を産み出す仕組みであってはならない。
 野心を抱くことはかまわない。しかるに、野心に溺れてはならない。

 進歩・向上の結末が集権と制圧へと変化[ヘンゲ]する世であると確信した。年貢という税を徐々に増やして、弱いものから搾取し権力基盤を高める仕組みは、この国ばかりのことではないが、不満が暴発し一揆となるのも、世界共通のことである。たとえ一揆がおきてもそれを制圧するだけの勢力を蓄えておくことが世の常であるようだ。まるで香港のように‥。

 株価は一時落ちはしたもののこのコロナ禍にあっても盛り返し高水準を保っている。普通に何でって思いませんか?裏を返せば、「俺たち利口者はお前ら馬鹿と違って有事禍であっても儲けるすべを経験から学んでんだよ!」と言われている気がしてならぬのだ。株価が高かろうと儲かっていようと有事を脱出する手段にはならない。だって有事は庶民の中に幅広く及んでいるのだから。権力者は、自分のようになれば、成功者となれるよという暗示にかける。自分(権力者側)には目を向けるが、巷の普通の人々や現場に目を向けることはないのである。政治家は料亭での夜会・会食が仕事であって特別であると嘯く。巷の常識では通用しない特権意識を持っておられる。
 かつての中国共産党は農民の支持なくして革命の実現はありえないとしたところからもその視線には農民を見つめる目は少なからずあったはずである。旧ロシア(ソビエト)の労働者階級を中心とした社会主義(マルクス・レーニン主義)も同様に初志は後世に残らず、足元を見向きもしなくなるわけだ。
 成り上がっててっぺんに立てば、己の礎であった土台を捨て、振り返ろうとしない。「もうお前らとは違うのだ。俺は抜き出たのだ。俺は偉いのだ。お前らにかまってられるか。」と変貌してしまう。それでも成功者としてまつられていってしまうのだ。
 環境、状況によって変化してしまう人の弱さをも、権力者は武器として使おうともするのである。「なんだかんだ言っても、食えなくなれば従うさ」と。
 命あっての物種とは言え、あまりにも卑屈に都合よく人は憑依したかのように変化してしまうのか。憑依の最終形態はカモフラージュ。周囲に溶け込む形でうやむやにして、何事もなかったように見せる。こんな世界で施される教育って何なんでしょう。
 光村2年国語の教科書に「科学はあなたの中にある」という説明的な文章がある。主旨としては、「『なぜ?』と疑問にも思わずやり過ごしてきた中に科学の種がある。」というものだ。小さいころに抱いた「なぜ?」という思い。ここから始まる想像、確認、実証。科学は遠く離れた手の届かないところにあるものではなく、身近なふとした現象の中に潜んでいるのである。今世紀、人はどれだけ「なぜ?」と思わなくなってしまったのだろう。
この「科学はあなたの中にある」の文言を借りて言うなれば、「答えは自分の中にある」とも付け加えたい。「疑問に対する答えを何かで調べ、答えが見つかれば、OK。」といったものでは済まされない。その答えは自分にとって納得のいく答えだったのかが問題なのである。納得いこうがいくまいが正しいのはこの答えだとするところに現代の病が潜んでいると思う。自分が納得できる答えを自分で描き上げてこそ、達成されるものだと思う。現代人はそれを忘れてしまっている。理科的事象であろうと社会的事象であろうと「なぜ?」から始まる思考を通して、答えを組み上げていく姿勢を持たなければならない。体のいい答えが子供たちにとって、決して良い結果もたらすものではないはずだから。特に「社会的事象」の「なぜ?」においては理屈(理論)と 納得という意識を伴う感性の両方が満たされなくてはならぬからだ。AIは前者であれば、人を凌駕するだろう。AIの思考の仕方を是として、人も倣えとする今世であれば、しごく当然ではある。だから、今。今が重大な局面をむかえているのだ。教育はとてつもなく重要な岐路にたっている。 2021.1.9

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