Vol.2 いじめ問題

 いじめが児童・生徒の社会における大問題となっている。
 解決策を講じ、その防止に努めることはもちろん重要である。しかし、解決策の講じ方には、違和感を感じるのはなぜなのだろうか?
 ひとつに「大人目線の一方的な手法」であるからなのかもしれない。大人が張った方策の中で解決できるものもあれば、そうでないものもあるからだ。彼ら子供たちは、学校という環境の中で、同世代が共有する社会を築いている。たしかにそこには教師という大人も介在するわけではあるが、彼らの社会の基盤は彼らである。自分たちが安心して生活できる社会を自分たちが創造することに、大人が手を貸してあげることの方が、未来を見据えるうえで、教育としては重要であると思えてならない。
 いじめの真相は、深層にある故、なかなかつかめないのが、現状であろう。どんなに入り組んでいようと、早急に真相らしきものを見いだし、「人が嫌だと思うことを言ったり、やったりすることは、すなわち『いじめ』なのだから、相手が不快な思いをすることを絶対にしてはならない」と大人目線の一般論的解決に終始してしまう。今の教師は、真面目にそう思ってそのように指導しているのか、不安にも感じてしまう。教師をはじめとする大人社会に存在するパワハラ・セクハラ。また、目に見えぬ圧力という「いじめ」の中で、委縮していく己を感じつつ生活しているのが、今の大人社会の本当の姿なのではないか。
 迫りくる事態に脅え、回避するための手段を講じ、本質と異なる表層を生み出して覆う。とどのつまり子供を見ているのではなく、自分たち大人社会を見ての方策にすぎず、つながらない困惑を覚えてしまう。「いじめ社会」に生きる自分たち大人が、「人が嫌だと思うことするのはいじめだよ」と子供たちに語る様子に、何とも言えぬ違和感・矛盾をかもす偽りと感じてならないのである。彼らが大人になったとき、自分の子供や教え子に、定義としての「いじめ」を教える姿が目に浮かんでならない。
 個人の自由(個性)や社会の多様性を推奨しながらも、決してはみ出させんと閉じ込めるこの風潮。理論や方策、そしてマニュアルといった箱物的な枠に潰されている大人が、こともあろうに、今度は子供たちを箱物的な枠に閉じ込めていくという負のスパイラル。
 頭のいい者が考えるだろうこととは何か。それとなく自分の思う方向へ着々と事を運び、つつかれる部分はあるにせよ、「馬鹿な奴らはそこに気付かないだろうし、あとで気付いた時にはもうどうにもならないのだ」という状況を作ってしまう。既成事実を作り、その枠を堅固にする。その枠組みの中に、子供たちにむけた教育も存在するのである。
 「いじめ」の内容は、時代の中で変遷するというのはわかる気がする。例えば、四、五十年前における子供世界のいじめといえば、言い方は適切ではないが、「できの悪い者(学力も低い者)」が、不満を解消するべく、「暴力」という力をもって表していたのが多かったと思う。やられた方はたまったものではないため、頭のいいものは「暴力」を用いずに理論で論破する形で報復する図が生まれてくる。やがて、子供たちも学んでしまったかのように「みんなで(大勢で)ちくちくやれば、暴力を用いなくても相手を潰すことができる」という概念が築きあげられていく。責任の所在を拡散し、微力であっても数の力でやりこめる方策を作り上げてしまうのである。現在は、SNSの普及に伴い、さらに顔の見えぬ形の方策へと変わり、SNSなら大勢でなくとも(大勢であるかのように見せかけて)圧力を加えることができるという方法へと変わりつつある。このいじめの図式は、大人社会では全く関係ないといえるだろうか。
 「いじめは無くならない」と感じている人は、子供も含め多いはずだ。なぜなら、大人社会に存在するのに、子供の社会では無くすことができるとは言いずらいからだ。もし、生徒の一人が「大人の世界にもいじめはあるんでしょ?なぜ、子供のいじめばかりが問題になるの?」と聞いてきたとしたら、かなりドキッとすると思う。「大人の世界でのいじめも問題にはなっているんだよ。」とは答えられたとしても、完全に見透かされている感を否めないだろう。
 家族から始まる一つの集団社会。小規模なうちは、お互いの様子が見えるためか、「がんばってくれている母親のために」「この子の将来のために」といった相手を思いやる環境が相互性をもって信頼が構築されていく。お互いが与え・返す正の連鎖が成立するわけである。(近年は、この最小規模の家庭という社会でも崩壊がみられるが…。)この小さな環境をひとまわり大きな集団社会で作り、さらに拡げていくより方策はないと感じている。
 損得勘定のない、自分さえよければでない、純粋で根源的な豊かで居心地のよい空気が浸透した集団の環境を確立していってほしい。その主体は、その場所で生活している人々であり、豊かな感性から放たれる正方向の連鎖を生み出す波長を拡げていってほしい。
PS.
 ちょっとだけ悪い気持ちをもって、人をからかった「いじめっ子」は、あるとき報復を被ることがある。「人の心を傷つけた」わけだから反論などできぬまま、いつしか「最上級のいじめの首謀者」へとまつりあげられていく。自分の思いを述べることははばかられ、周りから「あの子はいじめっ子だ」というレッテルを貼られて、二度とそれをきれいに消す手段さえ持つこともできない。これも「いじめ」となんらかわらないではないか。
 「いじめ」と判断する者が、どちら側につけば自分が非難を浴びることがないか を計算高く見ているにすぎない。結果として最初に「いじめ」をしたものが更なる受難を背負う方向へと誘われる。いじめられたものでさえ気の毒なほどに、這い上がることのできぬ谷に突き落とされるやもしれない。
 「『いじめ』は一度でも、ちょっとでもしたら、とてつもなく重大なこととなる。(報いを受ける)」という恐怖心によって、それが行われないようにするのには限界があると思う。半ば合法的?に圧力をくわえて犯罪者として完成させる大人社会を見れば明らかな気がする。大人(社会)は自分に非が及ばぬようにとだけを考えている。ケリをつけて早く終わらせて忘れたいだけなのかもしれない。「いじめ」の真相なんぞはどうでもいいのである。
 「いじめ」のない世界を望むなら、いじめる側といじめられる側の双方向からの思考を分析するべきであろう。いじめたほうはどういう気持ちになりやすいのか、いじめられたほうはどういう気持ちになりやすいのか…。そしてその当事者となる子供が「いじめ」と大人が決めつける前に自分たちで「いじめる側」「いじめられる側」双方を経験すべきである。動物がじゃれあう中で獲得していく真理を人間も学ぶべきであろう。食するものでないならば、そうはとどめはささないと。
 ストレス社会と言われて久しくあるが、いじめもストレスの一つのあらわれである。人間はどれだけ「ストレス」を解消する施策を講じただろうか。ストレスを除くという名目で何らかのメソッドを生み出し、それそのものがまた新たなストレスを生じさせ、累積させてはいまいか。ナチュラルにニュートラルに人が思考を結ばねば未来の扉は開かない。

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