Vol.42 また、「道徳」にかみつく!

また、「道徳」にかみつく!

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「やさしさ」 「おもいやり」 「いたわり」 「他人の痛みを感じること」 みな似たような言葉である。 これらの言葉は、一つの根から出ている。

            「21世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎)」より抜粋

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  Vol.15、17 でも触れたが、司馬遼太郎先生が言うとおり、道徳の根っこはひとつである。おさえるべきその根幹は「他者をおもんばかる気持ち」である。他者と書いたが、他者とは同じ空間にいる人間だけを言っているのではない。植物・動物も含む。巷では、これを動物愛護などと名付ける。他者が海や山なら自然愛護と呼ばれる。人ならば、人権やら家族愛やら遵法やら公徳心やら云々というわけだ。そう、根っこは同じなのに。

 他者を慈しみ、うやまい、いたわり、愛する心(他者をおもんばかる気持ち)という根っこを、我々は未来を生きる子供たちに創造させねばならぬのだ。

 それは、一方的に与えて達成を望めるものではない。 しかるに、「自然愛護」やら「公徳心」といった表に咲いた花の種類につなげるばかり。表題・項目・テーマが何なのかをあてさせるのが、道徳ではない。花びらだけをコレクションさせても、あとで、「このコレクション何だったの?押し花かよ~?」ってなるだけ。「だからぁ、公徳心・遵法精神でしょ!前回の道徳でやったばかりじゃない!」と、教師もいらつく。そこから見えることは、花びらにすぎないテーマに導いたとしても、その根っこの精神を生徒が修得したとは言えないことだ。

 「道徳」は、教えるものではないが、子供たちが学ぶべき最も重要な精神である。  

道徳の教科化、それは何のため?道徳心の無い若者が多いから教科にでもして学校でどうにかしろっていうっていう魂胆かい?教科にすれば、さすがに教師も道徳やるだろうってか。細分化して数をこなせば少なからず成果はあがるだろうってか。

 道徳の教科書?は表向きそんなつくりとなっている。でも、道徳の根っこを見つけ出せないわけではない。根っこが見つけられないものばかりにならないうちに、子供たちの心の根が震えるうちに、子供たちが「他者をおもんばかる気持ち」にまで下りて体験を積み重ねられるようにしてあげればと思う。フィクションで道徳を疑似体験させて、道徳を修めるでなく、一人一人のノンフィクションとなるよう導こう。

 1年生では、2/21(金)の道徳で「日本の心と技(『明日への扉1年㉗ P134~』)」を行った。この中に登場する東日本大震災を契機に帰化したドナルド・キーンさんは、日本の魅力について「傘がなくて雨宿りしていたときに、見知らぬ人に『返さなくていいからどうぞ。』と傘を貸してもらった。」エピソードを述べています。ここに見える「きづかい」「優しさ」「親切さ」は根源的な道徳観にほかなりません。 「他者(相手)をおもんばかる気持ち」から受け継がれてきた、押しつけがましさのない日本の心の文化なのです。

 そこで、我々や子供達が、型としての継承ばかりではなく、精神から始まる文化も時間をかけて、「与えたり、与えらえたり」という自然な日常の経験から、根っこから始まるきらめく文化を体現させることだと思います。             2020.2.21

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