芭蕉が松島の句を残さなかった件について

 芭蕉は松島で句を残さなかった。あまりの景観のすばらしさに残せなかったと言われている。

 「雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅 寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。」

 雄島に舟で渡った芭蕉は言う。「松葉や松笠などを燃やす煙が立ち上る草庵を見て、ここにはどんな人が住んでいるのかと、(芭蕉庵を思い出してか)懐かしい気持ちで近寄ってみると、月が海面に映り、昼の景観とはまた違った景色が現われた。入り江付近に宿をとって窓を開けて二階から眺めた景色は、風雲の中に旅寝するようで、これほどの絶妙なる気持ちはない。」と。
 たしかに宿からの眺めに感銘した様子を述べているが、それは映る月を見た雄島でのことではなく、「江上に帰りて宿を求れば」にあるように、内陸の河口(入り江)近くの宿での光景となる。この時には「月」の記述はない。煙立ち上る草庵の場面でもそれは海面に映る月であって、空にかかる月ではない。
 このことから考えるに、おくのほそ道冒頭で想い描いた「松島の月まづ心にかかりて」のイメージとは違っていたのだろう。そんな憶測が浮かんできてしまう。
 何が違うかと言えば、構図がまず違っていた。芭蕉が松島を訪れたのは旧暦五月九日(新暦6/25)である。よって月(お月様)は九夜月(九日目の月)である(上弦の月[半月]が少し膨らんだ月)。ひとつに芭蕉は松島の島々の空にかかる「満月」を心にかけていたのだろう。また、夏至に近いこの時期に、日が落ちて月がはっきり見える夜7時過ぎだとすると、月の見える方位は南となる。宿から見た時には、さらに月は西へ移動してしまっていただろう。つまり島々と月とのコラボはかなわなかったと思われる。東松島方面からの眺望であれば島々の上にかかる九夜月は望めたかもしれないが。それでも、夏の時期で月の高度は低いとはいえ、南中を過ぎた頃のため月が高すぎて島々とのタイアップはかなわなかったと思われる(雄島の場面で海面(水面)に移る九夜月を著したのは、松島の情景と月がともに視界に収まる構図がそこしかなかったからと思われる)
 望む月(満月)ではないこと、島々にかかる月ではなかったことが、句を残すことを躊躇させた一因であったのかもしれない。

 芭蕉は、石巻から北上川を遡上する。西行もこのルートで平泉に向かったのかもしれない。また、現代においては、義経が平泉へ入った最有力ルートとして、太平洋側を舟で上ったという説がある。このルートで行けば、北上川に入り、北上すれば、平泉へは行きやすいのだろう。義経・西行、彼らの想いを感じとるべく芭蕉は上る。無常の中にきらめく想いを求めて。

        2021.9.28            線部 2020.10.23 追記
                          線部 2022.6.18 追記
                        線部2023.8.28 追記


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