Vol.53 権威主義の傘にある民主主義

 ”民主主義”聞こえの良い言葉である。
 その実態は、権威主義体制の中で、民主主義を唱っているにすぎないものになってしまった。
 中国では精神活動(思想信条)については封じ込めを図る一方、経済活動は自由であることを声高らかに謳いあげる状況。
 アメリカでは法律は権力者を守るために使われ、庶民を守る目的として立つことはほとんどない。
 日本とて大差はないのであろう。
 最後の砦「民主主義」が経済と権威に悪しく利用されていくのであろう。頭のいい奴、要領のいい奴は生き延びていき、そうでないものは苦汁を舐める結果となる法律や手続き。どこがどう、なぜ変わったのかわからぬ難解さを増す(不親切な)書類に翻弄され、煩雑さばかりが募る日々。
 まぁ、庶民の多くが、「偉い人が決めて執行すればいいじゃん。」と思っている節が高い。「だって一から自分で考えて取り決めるなんて面倒くさいじゃん。」と。本音はそんなところにあるのだろう。「民主主義」は「権威主義」に完全に呑まれてしまったのである。「資本主義」やら「自由主義」やら経済軍は、この民主主義を纏わりつけて、好感度を上げる計算かと思われるほどだ。
 経済が主義主張に関係なく、人類の幸福感の基軸として闊歩する。

 「経済」を引き合いにだせば、泣く子騒ぐ子も黙る仕組みに落とし込まれていく。
 資源や理念を食いつぶし破壊させて闊歩する経済。それほど恵まれていないわけではなく、どちらかと言えば恵まれた経済状態にある者が、さらなる上を目指して暗躍する経済。格差社会は当然の成り行き。
 脅しと恐れで人を動かそうとする経済。正当な志のある理念さえ煙に巻かれて、なしのつぶてとなる現世。コロナ禍にあっては、専門家会議は、純粋に保健・医療の観点から進言したかっただろうに、経済との折り合いがらみで考えることが役目であるといった枷(かせ)を掛けられてしまった感が否めない。
 「経済」という大豪邸の一角に「教育」や「学問」も鎮座してしまった。経済軍の指揮下に置かれたと見える。独立してあるべきものが、影響下に置かれる(傘下に組み込まれる)図式がなんともおぞましく感ずるこの頃である。
 何度も言う。この流れをこのあり様を「是」として、子供に継承していくのが、教育者の務めなのか。いや違う、真理と平和を希求し、バランスよく地球の未来を創造する思考を育むことではないかと思う。

 大がかりなキャッチ―な政府のうたい文句「Go to ○○」に押されたのか、都知事もフリップというキャッチ―なものを出さなくなった。そんなもので解決に向かうものではないと気づいたのか、政府の施策に翻弄され、それどころではない状況なのだろうか?
                    2020.11.10

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