Vol.5 未完全な世界

ー未完全な世界ー

 人は間違いをおかす。決してほめられたことではないが、そんなものである。間違うつもりなど更々ないにもかかわらず、間違うこともある。また、それが間違いであることを知らぬ間に事が運ばれていることもある。いわゆる間違いという認識のないままに流される状態である。間違いたくて間違う人はいないだろう。そう、人間は時として間違いをおかす未完全な存在なのだ。しかし、これは人に限った話とはいえないだろう。他の動物、植物だって間違うこともあり、機械、ロボットだって故障(間違う)する。
 発想をかえてみよう。人は間違うところに哀愁が漂い、愛嬌もうまれる。そう、そしてそこに文学が芸術が生まれ出る。無機的な間違いという現象に感情のひだが伴ったとき、豊かなものとして花開く。間違うからこそ次へ向けての思考の扉が開く。失敗は成功の母とはよく言ったものだ。
 間違うことに寛容になれ。自ずからであれば”間違ってもいい”と。他からであれば”間違うこともあるだろう”と。そこに存在する優しき空気感が未来へ向けて前向きな姿勢を生み出すと信じてやまない。この閉塞しきった状況を。この希望のカケラさえ見えない現状を。
生きている。働いている。生み出している。そんな実感の持てる世界を願って…。

 人類は未だかつて月より遠き宇宙をその目で見てはいない。想像するがいい。遠き惑星へ旅立った時、いったい自分は何を思うかと。ロケットが故障しないか、もう一度地球に立てるのかといった不安?もちろんそれはあるだろう。同時に未だ見ぬ世界をかいま見れるワクワク感も感じとれよう。人間は失敗を極度に怖れながらも、夢を希望を繋ぐことによって支えられている。いや、進歩の道を模索できている。

 子供たちにも、失敗、間違いを体現させたいものだ。失敗したことから生まれ出た現象と感情を。ここを大事にして教育があるならば、もう少しは子供たちの中にも実感と実態との整合性がとれた社会となっていただろうに。

 さて、本題にもどろうか。考える力とか創造力を身に着けさせるとかが昨今の教育の課題と言われ始めた。考えさせる時間を、創造する時間をどれだけ与えてきたのか?金型にはめ込まれ有象無象にコピーされたかのように産み出される考えない子供たち。同じ価値観を強要され、同じ作業を強要され、個性のカケラというべき発想も持てず、自分の価値観に自信が持てず、結局は既成のありきたりの実感の伴わないあてがわれた理論をなぞることに終始する。
子供ばかりではなく、我々教師も忙しさの中で自ら面白いもの、楽しいもの、ワクワクするものを考え産み出す余裕を奪われた。教育の実践の中に根強く感じ取れる実感のなさ‥‥。これは何なのだろう。旨味もなく味気ないものを食らい、ありがたきとせよとでもいうのか。生きるために、そして、前を向いて活きるために、感覚に裏打ちされた発想とそれを実現すべき方策をあみださねばならぬのだ。自分の価値観を持ち、自分で考え、創り上げる時間は、子供たちはおろか、我々も遠い昔に奪いとられてしまっていたのだ。

 運動会が終わった。今年もケガ人が多く出た。世の常だろうか、「ムカデはキケンだからやめたほうがいい」という天の声が聞こえてきそうだ。
 「安全第一」をスローガンにして、運動会を行ったとしよう。
「ムカデ」はゆっくり一歩ずつ確実にゴールすること。ケガ人を出さないことが最優先課題だ。
 「どのクラスもケガしないように注意して、結果けが人を出さずに、見事ゴールしましたぁー。」
「なんて、感動的!」
「すげぇ!」 って思えますか?
 もはや、「ムカデ競争」という競技のポリシーはそこにない。ケガをするリスクを冒しても速く走るために努力するところにこの競技のおもしろみがあるのに‥。 「ムカデ競争」という名のついた「ムカデ競争」にはあらじ競技を「ムカデ競争」と勘違いして‥‥。
 間違いなく他のどの競技と比べても競技者全員が同じ動作・同じ役割を持つ種目はムカデ以外にはないのである。そこに全員の意思がそろってこそ生まれいづる感動が学びがあるといえる。
 いつの日か、ムカデが無くなったり、変貌したムカデを見ることがないことを願ってやまない。

    2018.5.29 追記

白髪レガシーVol.5 PDF