式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
命よ、絶えるならば絶えてしまえ。生きながらえていると、秘めている力が弱ってしまうかもしれないから。
光村の教科書では、このように解釈がなされている。
定家に対する恋心なのかどうかは別として、一般的には「この命よ、絶えるのならば今絶えてしまえ!このまま生きながらえると、今まで堪え忍んできたあの人への恋心が他の人に洩れ知られるかもしれないから。」といったニュアンスでとらえるのが主流であるようだ。なかなか情感のあるとらえ方だと思う。「恋する思いが隠し切れず、あふれ出し、外から見てもそれとわかってしまいそう」という様子である。この解釈で気になるところといえば、「玉の緒よ絶えなば絶えね」の部分である。この命よ、絶えてしまえ(死んでしまえ)と言っているのはなぜなのか。あの人に迷惑がかかるから?皆に知れては恥ずかしいから?死ぬほどのものかと思ってしまう。命と天秤にかけた思いの内容につり合いがとれていない気がしてならない。
「ながらへば」「しのぶ」という古語の解釈によっても、意は変わってくるとは思う。まず「ながらふ」は、旺文社の全訳古語辞典を引いてみると、①の意味として、「生きながらえる。長生きする。」とあり、例として「玉の緒よ絶えなば絶えね永ら・へば忍ぶることの弱りもぞする」とこの歌を引き合いに出して、「生きながらえる」という意と書いているのである。「命絶える(死)」とうらはらの関係にある「生きながらえる」と歌の対比の状況とみて、そうとらえたように思える。もっと単純に「長い時間(年月)がたつうちには」程度ではいけないのかと思えてくるのである。
この場合、「今死なないで、長い時間がたつうちには、熱い恋心も弱まってしまう(長い時間の中で薄まってしまう)から」あたりの解釈も取れよう。
「忍ぶ」については、同音の「偲ぶ」を掛詞とし、「あなたを思い慕う熱い気持ちが長い時間の中で薄れてしまうのならば、いっそ今の状態のまま命が絶えればいい。」ととらえられよう。一番満ち満ちた良い状態で最期をむかえたいという思いである。
ふたつの解釈をまてめておこう。
①この命よ、絶えるのならば今絶えてしまえ!このまま生きながらえると、今まで堪え忍んできたあの人への恋心がこらえられなくなって、他の人に洩れ知られるかもしれないから。
②この命よ、絶えるのならば今絶えてしまえ!長い時間の中で、あなたを思い慕う熱い気持ちが薄れていってしまうのがこわいから
このどちらが正解であるかではなく、掛け詞を介して、両方の意味合いを備えたものではないだろうか。
≪…他の人に洩れ知られるかもしれない…≫と、
≪…あなたを思い慕う熱い気持ちが薄れていってしまう…≫とで、
この歌の本歌取りで、円周率(π)と[1]の関係を〇△▢の出逢いを詠っているようだ・・・
数の緒よ絶えなば絶えねながらえば数えることのよわりもぞする
「情緒と創造」岡潔著にこの歌が出てくる
数の言葉ヒフミヨ(1234)が、平安な時代にこそ存在感がありそう・・・
【 〇△▢からできているのが数(自然数)に洩れ知られるかもしれない 】
【 1を思い慕う円相(π)が薄れていってしまう 】
コメントありがとうございます。めったに来ることのないコメントだったのでびっくりしました。
私は国語を教えていたのですが、常々決まりきった答えとして、何の抑揚もなく教えていかねばならない昨今の教育に疲弊していたのです。
もっと情緒や感覚を傍らにおいて考えることはできないものかと思っています。貴殿が数学になぞってコメントいただけたことにとてもロマンを感じた次第です。
0(ゼロ)の概念や -(マイナス)の概念、小数点の概念をはじめ、人はだんだんと自然数から離れた世界に身をおくようになってきました。昔の人もおそらく実感のともなわないもの(理屈・理論)と自然(自然数)をどう融合し、味わいや余韻という実感のあるものを生み出していったのではないかなと思っています。自然(自然数)が人の帰る道ですから。古人の多くもそうだったのだろうと思う今日この頃です。