Vol.1 空き地に土管のある風景

ー空き地に土管のある風景ー

「ドラえもん」の風景から 
 -昭和の世界を振り返り、現代を見る じじいの戯言-
                                
 ジャイアンがリサイタルを開いたり、彼らが野球をしたり喧嘩をしたりしていた町中の空き地。そこには、積まれた土管がある。現代の人にはわからないだろうが、ごく当たり前に資材の残りなのかそういったものが、空き地と言われた場所にあったのである。子供たちはそこで遊び、球を打っては塀の向こうの民家のガラスを割ってしかられていた。「ドラえもん」の世界の日常が確かにあったのである。
 現在、空き地で子供たちが遊ぶことはない。空き地が無いのもあるだろうが、空き地らしきものがあったとしても、有刺鉄線が張られたりし、「立ち入り禁止」となっている。昔は休日の学校も自由に出入りし、子供たちが集まって遊んでいたが、今は違う。
 現在、子供たちの遊ぶ場所は公園として存在しはするが、「球技禁止」などとなってたりする。
 ここで言いたいことは、「空き地を提供しろ!」ということではない。空き地の所有者が仮に空き地を提供したとしても、それにまつわる様々な問題が予測できるからである。いわゆる責任問題。「責任を問われるくらいなら閉じてしまえ」という発想である。現代の抱える閉塞感はこの責任問題からきている気がしてならない。「それをやって君は責任を負えるのか」と毎日毎日、日常茶飯事のごとく言い聞かされ続けているような状況をである。新たな発想を活かして前向きに取り組んでみようという意欲は、持てと言われても持てないのが彼ら(現代の若者や子供たち)の実情であり、本音なのだと思う。やりたいことをやろうとする前に責任を問われる。その責任に関わるところをクリアしていってはじめて自分のやりたいことにさしかかれる。多くはここまでに労力を使い果たし、意欲も失ってしまっていることも多々あるだろう。また、クリアしていく過程で、自らの道を方向転換してしまうことさえありえよう。のちにはクリアすることこそが本質や目的としての達成結果として受け止めてしまうことにもなってしまう。
 「結果」を「短期」に求められる現代。教育の現場でも同じである。Aという方策が評判となれば、特効薬のごとくそれをプログラム化し実践しよう(させよう)とする。それが生徒に合っているかどうかが問題ではなく、それをやってるかどうかが問題となる。子供はどんどん取り残され、行く先を見失っていく気がする。これらが教育現場の毎日を覆っているように見えてきた。
 他国との貿易や交渉事項においては、自国の有利にあること、いわゆる「勝」ことを求められ、その手段を構築し、あるべき理念は消去され、「勝」にむすびついた手段だけが残る。小さな教育という社会においても同じなのだろう。

 教員としての職務を終える日も近づいてきている昨今、江口洋介のセリフではないが、「そこに愛はあるのかい?」と問いかけてほしく思う。生徒達に向けてやっていることに「愛」があるのか否かを…。

 空き地に土管があることを快く許せる(責任を問わない)社会、「立ち入り禁止」という看板を貼ら(責任を負わないようにする)なくてもよい社会がなんともなつかしい限りである。責任に脅える大人の世界で、責任に脅える子供達がきっと育っているのだろう。

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