Vol.47 コロナ対応から‥その後

 ”新型コロナウイルスに対応する医療従事者などに敬意と感謝を示すために、航空自衛隊のアクロバットチーム「ブルーインパルス」が、5月29日に東京都区部上空を飛行した。”
 テレビでは、その時の様子を明るい話題として、病院の屋上からありがたく思う看護師さんを映し出していた。ひねくれ者なのか、なぜか私はそれに違和感を感じてならなかった。「素直にほほえましくエールをおくってあげればいいじゃん」と思われるだろう。
 この違和感は、これ以前にも感じていた。”医療従事者に拍手を”の時だ。これも「素直にありがたみの思いをもって拍手してあげればいいじゃん」と言われるだろう。「だれも応援してくれないよりは、拍手でも応援してくれる人がいることはありがたいことだし、頑張ろうと思える機会になり得るのだからいいことだよ」と。たしかにそうなのだけど、そう思わなくちゃいけないご時世なのかもしれないけれどね。当事者(医療従事者)はもっと複雑な思いでいる人が多いと想像してしまう。本質的な支援が必要とされる現場や当事者に目くらましのエール(本質的ではない支援)をしても、かえって追い詰めてしまうのではないかと危惧する気持ちがあったからだ。世は、すれ違うとか、見当違いとか、かみ合わないことに慣れてしまっているのか、寛容に受け入れすぎていませんか、と思ってしまうのだ。「同情するなら金をくれ!」とまでは望まねども、「現場の望む本質的な支援を早く、心が折れる前に!」だと思う。当事者でない我々は、何ができるわけでもないのだから、せめて拍手!? 違う。違うだろ。「拍手をしてやったんだからもっと頑張れよ。」っていう強迫に加担してしまうと感じるのだ。
 愛知 大村知事の「医療崩壊」発言に端を発する吉村大阪府知事との論争。これもかみ合わないもののひとつ。電話をしても様子見で、いよいよ救急車を呼んだが病院をたらい回しにされ、最終的には死に至った事例。大阪は違うのかもしれないが、そのような状況にあったのは事実だし、大村知事は、それを「医療崩壊」と言ってしまったわけで、吉村知事からすれば、「医療崩壊」とならないためにおきてしまった結果であり、実際には「医療崩壊」は起きていないと言いたいのだろう。そこを争っても苦しんだ病人や医療従事者という現場の当事者にとって何の慰めにもならない。
 論点がずれ、すりかえられ、うにゃうにゃするのは最近の当たり前となってしまった。黒川元検事長定年延長にからむ森法相の答弁に至っては、言わされてる感が隠し切れず、意志のかけらも感じとれない。
 教育の現場も同じである。表向きの部分は「らしく」装い、「ちゃんとやってますよ」感を出すのだけれど、現場の実情は><;。例えば、分割登校、健康観察、ソーシャルディスタンス、手洗い30秒、消毒、そして給食……。生徒のいる公の部分では先生もマスクとフェイスシールドで対応など、「感染には留意してます!」とアピールしておいて、その実、職員室は密状態。職員会議(もはや会議ではないが)だけは、パフォーマンスなのか、大机に一人ずつ座って行う。客同士や客と従業員のソーシャルディスタンスは図るが、従業員同士の密は知ったことではないのと同じである。矛盾を定理とする中で、必ずとばっちりをくらうものが産まれる。それは下々の者たちなのだ。弱い立場の者が外れくじを引かされ、責任を取らされる。現場で苦しんでいる我々であり、もっと弱い立場にある生徒たちがそれにあたる。医療現場では、医療従事者や患者であろう。
 その現場の持って行き場のない苦しみを伝え、改善していくために発信するのが管理職であり、施行するのは役人なり、政治家のはずなのに‥‥。従業員を守るという意識は、教育現場には皆無となってしまった。ただただ、責任を負わないようにと画策するだけである。現場の声を正しく伝える手段は閉ざされてしまった。
 どこかが先進的な取り組みをすれば、右へならえとばかりに無理を強いる構図。結局下々のことを見ているふりだけして、全く見ないわけである。何時、どこで、そうなったのかはっきりしないまま出される対策やら方針。巡り巡って辛い思いをするのは、下々であり生徒。
 何か変わりました?「新しい生活様式」という重石が加わっただけすか? 誰がこの矛盾や苦しみを伝えられるのでしょうか?

                       2020.6.1

白髪レガシーVol.47 PDF