Vol.67 塗り絵の教育Part2(組織的な塗り絵)

 Vol.25でも触れたが、「塗り絵の教育」は足音高く進行している。輪郭線はなぞることなど思いもつかないほどくっきりとしているのは変わらず、この部分はこの色で塗れとする様子をなじったものだ。
 今回感じているのは、それぞれのパーツをみんな同じ色で塗れと言ってきていることだ。さらに、「君の塗り方は雑だねぇ」と塗り方にさえ注文を付けるようにもなった。もはや塗り絵でさえなくなってしまった。
 各教科の評価には整合性をもたせるべく動いている。ある意味教科の壁を取り払い同じ規準で同じ方法で評価するように進んでいるわけだ。教科の独自性など評価の規準を超えるものではないのだからとけんもほろろにされてしまうのだろう。
 白いキャンバスに芽吹く風景を描きたい。しかし、もうそれは許されない行為。決められたものを決められたところに決められた方法で写すことしかできないのだ。教員個人の多様性には目をそむき、社会にむけては多様性を尊べとのたまう。まるで荒野で野菜を作れと放り出された感覚である。「種と少量の水と粗末な肥料(公務支援C4h や GIGA構想のクロームブック や 指導要領という名の取説)ぐらいはくれてやるから。」と。
 土地を耕しながら土を肥しつつ野菜(生徒)を育てる。超人でも無理です。リセットすることができない中で、次から次へと訳の分からんものが積まれていくのだから。
 容量オーバー(要領オーバー)。警告音は5年ほど前から鳴っているのを顧みず、素知らぬ顔で振り下ろす施策。教育現場(職員室)も荒野と化していく。8月下旬からの始業開始、部の活動の時間を含む働き方改革、オリパラ、新教育課程、新たな評価のあり方、コロナ対策と、まくしたてられるように変革へと進む教育現場。
 ふと思う。組織って何さ? Organizational? 組織に抗う者は排除される?
 ここにも、「組織が先か個人が先か」という、ニワトリが先かタマゴが先かのような構図が存在し、統括する者からすれば、組織が先と唱え、組織に抗う者からすれば、個人が先と唱える傾向にあるわけだ。
 現代社会における多くの者は、組織なくして自らの活躍の場、生活の基盤となる財源の場を見いだせないため、組織に傾倒する傾向が強くなる。よって、「組織があるからこそ生きていける」という意識をもたらす。
 組織には、しきたりや手順というものが存在する。これは、潤滑油のごとくある意味とても生活するための気ぜわしさを払拭し、簡素化合理化してくれる有益なものでもある。組織に乗っかっていれば安心が担保される、面倒な諸々の所業から開放される。ここで、統治者、統括者は勘違いする。「組織があってこその物種だ。」と。「組織無くして生きられぬのだから、組織の安定・向上のために尽くせ!」と。
「『組織』>『各々』」の不等式が自ずと成り立っていく。先駆者として開拓して一から創り上げたパイオニアならば、組織なるものを作った時に「上意下達」という一歩通行の組織のあり様を構築せはしない。なぜなら、辛さや苦しみを自分自身が一番知っているからだ。組織のシステム化が進み、受け継いだ統括者が先駆者の想いとはうらはらに統治を始める。個の想いが組織の想いへと刷りかえられ神格化した時、悪夢は始まるのだろう。アメリカ16代大統領リンカーンも連邦政府という組織の分断を収めるため(組織を先見して)の切り札として、南北戦争の終結、奴隷解放があったのかもしれない。またゲティスバーグ演説での「人民の人民による人民のための政治」も切り札の一つだったのかとも思えてしまうが、人個人として崇高な想い(すべての民が合衆国連邦を組織する)は少なからずともあったのではないかと想像できる。
 ヘイトとハラスメントの歴史を持つアメリカから見えること。
 人がいなければ組織は成り立たない。人がいてこそ有益な組織。個々という人の幸福を見ての組織であるべきであろう。
 現在、日本の教育に携わる下々の民はヘイトに晒され、ハラスメントを受けている。「圧力」という名の「自由」にはほど遠い化け物からである。組織は、決して下々を(現場の苦悩を)見はしないのである。

 2021.8.16

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