Vol.72 都合という呪縛

人の弱さは、最終的には自分の都合を最優先するところである。
己の都合と直面した時どんなに尊き論理でも消し払ってしまい、言い訳となる詭弁の口実を模索することになる。このとき、自分が置かれている立場での都合を優先するため、他人の立場は二の次となり、想像すらしなくなることも多い。
大国は法規による報道規制をかけ、侵略と呼ばせず、ネオナチによるテロの排除と唱える。朋友国を守るという大儀をかませて、戦乱に苦しむ現地の人々を案ずるかのふるまいはするが、その実、現地の人々の都合を顧みる気持ちは全くない。ポーズだけとって、己の思惑へと流し込む算段なのだろう。それは「人がゴミのようだ」という台詞を吐いた天空の城ラピュタのムスカのごとく、西側諸国やそれと協力している国内の者を「くずどもと裏切り者」と侮蔑(ぶべつ)する大国の雄の姿に裏付けられよう。
あからさまに見て取れることであっても、それを是とする空気を醸しだし、さらに増幅せんとする。シリア内戦やチェチェン紛争で用いた戦法が国際社会で容認されたかの勢いである。国際社会も黙許してきてしまったツケをここでくらう。
思惑やら都合の悪しきところは黙許されることを約束顔でいることだ。それが国際社会の暗黙の了解とでもいうのか。

世界情勢の話と思いきや、いつの間にか当然のように成り上がった定説というものも同じく一般の人の生活や精神をむしばむ。プロパガンダによる洗脳とまではいかないが、コロナ禍にあっては「自粛警察」といわれた存在がそのよい例であろう。自粛要請に応じない個人や商店に対して、偏った正義感から、私的に取り締まりや攻撃を行うのだ。自分はいいことをしているというお墨付きを得たかのように。

核の脅威に対抗するため、世界はその抑止力として核を保有する。一般の人(庶民)にとっては、「戦争に巻き込まれたくない」「戦争で苦しみたくない」「戦争で死にたくない」というのが誰しもが懐く普通の感情であり、核などというものは論外で、無い方がいいにきまっている。
悪いささやきが聞こえる。「核を持たないと核でたたかれるリスクが高まるよ。それでもいいの。やられてもいいの。」と。一般人も「どちらにしても核に脅えて生きることにかわりはないのならば、せめて反撃できるだけの抑止力という名の核攻撃ができるほうがいいのかもしれない」と人々の思考を誘引していく。これが現在の図式。この恐怖によってある方向へと人の思考を流し込む。まさにこれこそが核の脅威である。これを分析すると、「理想としては核はなくしていくことが是」「自分の都合と照らし合わせると核保有もやむなし」となってしまう。われわれは何時も自分の都合につけ込まれる形で、その利己的なレベルで思考するメソッドへと落とし込まれていく。核だけでなく、多くのものが
この情けない呪縛の中にある。
「そうはいっても理想で食っていけるのか」「働き口が無くなってもいいのか」「家族を養っていけるのか」「豊かな生活が失われてもいいのか」「不便に耐えられるのか」「損してもいいのか」‥‥‥。
経済軍の脅しにも似た呪縛の声を聞きながら人々の生活の今がある。自分の都合と強制的にすり合わされて判断を迫られる。ずるくもやましい慣例なのである。

歪んだ社会が矯正される前に次の歪みを産み出してしまうスパイラルにあって、人が本当に信じるべきものとは何か? それは欲にまみれる前の正しさであり美しさであろう。潜在的に有している人の正義感であり愛でもあろう。どんなに無機質な機械化された正当性を高めた理論やシステムであっても、生きていく中で、己の感情とそぐわぬものを感じた時、人は叫びをあげるのだ。「これは何か違うぞ」と。だから詩も歌も小説もなくなりはしない。文学がなくなることはないのだ。警鐘を鳴らし続けるのだ。ただ、気になるのは、世間が少年少女に感ずる心を持たせなく進んでいることだ。現在の学生はおとなしい。従順でもある。半面、自分の思いや考えを表現することに自信がないともいえる。思ったところで考えたところでどうにもならないとあきらめに似たものがうずまいているのだろう。あきらめることのない諦観の姿勢で模索して、自分の感情とすり合わせていってほしいと強く願う。

2022.3.21