Vol.17 「やらないという選択」はあるのか?

「やらないという選択」はあるのか?

 道徳の授業化が足音高く迫ってくる。
 働き方改革とはうらはらに職員の業務の過密化は必至である。現場の声は聞かれることもなく、制度として道徳の教科化が決定し、あとは「いいように何とかしろ!(忖度せい!)」といった雪崩落とし的な状態。道徳担当となる先生は、自らの意に関係することなく、粛々と教科化を進め、評価についてもあるべき姿を忖度して考えていかねばなるまい。金太郎飴ではならない評価を求められる道徳評価規準にむけての規準?を聞いた気がした昨日の研修。なんだかこのまわりくどいまやかしの臭いがプンプンする何重構造にもしてはぐらかすかのような道徳教科化にむける正当性。「病気になっちゃうょぉ」って隣の人は言ってます。
 道徳については、司馬遼太郎先生の言われたごとく、
― 自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「やさしさ」「おもいやり」「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
みな似たような言葉である。
これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。
その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。―
根っこを失ってメソッド化するだけの方向性に安んじてはならない。
 道徳教育という箱。その箱のみを変えて大きな改革とせんとすることの危うさは、この日本以外にも、中国、アメリカ、ロシア‥‥多くの人々が知っているはずだ。器だけ変えて、中身は腐ったまま。そこに真理があるはずもなく、たとえ、貴き志から生み出された器であったとしても、いつしかかすみぼやけて、刷りかえられ、抜け殻のみが威張って君臨するような風潮。「そこに愛は、あるのかい!?」って世界の真ん中で叫びたくもなるぜ。我々一般職員の辛さ、きびしさ、忙しさ、痛みを肌で感じていない連中が、道徳を考え、教科として威厳だけを高め、精神的に支配・淘汰する社会が当たり前にせんとする構図。そんなことを企んでいるとしか思えなくなってしまう。

 教育の未来に、子供たちの未来に、お金では買えない、メソッドでは培えない、根っこにある人間の「善き心」「美しき心」「優しき心」、つまり「道徳」を繋いでいけないものなのか。道徳に箱をかぶせて、箱からこぼれないようにする手法が威風堂々、足を揃えて行進している。
 「道徳の教科化」という病原菌。みなが侵され、パンデミック。学校はまさにバイオハザード。
 子供にまで確実に浸透してゆくのは見えている。「ありがたきもの」であり、うぶではあるかもしれないが純粋で貴い「道徳心」を「根っこ」を育ませる教育を失ってからでは遅いのだ。

愛のない教育
道徳心のない道徳‥‥

 この病を我々は完治することができるだろうか?
 勘ちがいはたくさんしてきましたけどね><;アハッ。
 やらない選択もありでいいでしょ。

白髪レガシーVol.17 PDF