芭蕉の美観・価値観 定家との差異

 芭蕉の持つ美意識とは何か。藤原定家との違いを見つつ考察してみた。着目点は、余韻というか、あとに残る味わいの色合いである。なにを醸し出すことを望んでいたのかということに尽きるとも言える。

 まずは、定家から見ていきたいと思う。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

 三夕の歌のひとつでもあるこの歌。咲く花も色づく紅葉など華美なるものは何もない。殺風景な海辺。ただあるのは、粗末な小屋(苫屋)だけである。浮き彫りにされる残り香のような味わいといえば、いっそうの寂しさをさそう「苫屋」である。ただでさえ殺風景な無機的要素が高い情景に苫屋だけがあるというかすれた情況を助長させた感がある。負の世界観にさらにくっきりとピンポイントにつきつめた負を重ねるのである。究極のストイックさを感じてしまう。「ただでさえもの寂しいのにこのうえこれかよ!」と。

駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

 この歌もそうである。馬を留め置いて、衣服についた雪を払い落とす(身を宿す・ひと息つく)屋根のある物陰とてもありはしない。人けはもちろん無くただただ雪が降る景色にあるのは渡し場の小さな桟橋だけである。小舟が停留されていてもいい。雪の降る殺風景な情景にいっそうの寂しさを醸す雪の降り積もった桟橋が浮き彫りにされる。

 方向性でいえば、寂しさの先にある究極の寂しさである。我々凡人には理解しにくい枯山水の庭園のごとき殺風景の極みである。

 さて、芭蕉はというと定家とはねじれの関係に見える。つまり残るイメージ(余韻)が正方向に輝いて見えるのだ。味わいに有機的なあたたかみを感じるのだ。

草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

 我々がこの句の余韻として残像に残るのは、雛人形を飾った明るく煌びやかな温かい家の様子である。対比の構造として、「陽」→「陰」があげられるが、芭蕉はほとんど「陰」→「陽」である。残る味わいには明るさ、輝き、あたたかみを残すよう工夫していると思える。

夏草や兵どもが夢の跡   義経主従と泰衡主従が戦う姿

五月雨の降り残してや光堂  500年後に訪れた平泉に残されていた金色堂

五月雨を集めて早し最上川  やわらかい梅雨の雨を集めて勢いよく流れる最上川

 マーカー部に、最後に残る味わいに動的で有機的なプラス志向のイメージを感じるのである。

「夏草や兵どもが夢の跡」の句は、「夢の跡が残るのだから何もないではないか」と言われるかもしれないが、イメージとして浮き上がった当時の光景が感涙を呼び起こして終わるのである。

「五月雨の降り残しや光堂」の句では、「高館」との対比を込めてその感動を記している。地の文に「『既に頽廃空虚の草むらとなるべきを』(もうとっくに〔高館と同様に〕廃れ果てて何もない草むらとなるはずだったところを)」とあるところから、「大門の跡」や「金鶏山」といった「あるにはあるが」のものではなく、金色堂として当時を偲ぶことのできる実景があったことに感銘したものと思われる。

 定家と芭蕉とで無常観が情感の基盤にあることは変わらないにしても、そこになにを見出すのかという点で定家と芭蕉とでは大きな違いがあり、それが各々の美観として表出しているのだろう。

P.S  それにしても、1186~1189年の平泉において、藤原秀衡、藤原泰衡、西行、源義経が鎌倉の源頼朝との狭間でそれぞれがどのような想いや希望を描いていたのか気になるところである。   2021.10.17

hirorin について

東京で中学の国語教師をしていました。
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