Vol.13 うれしさのない夏休み

 うれしさのない夏休み

 子供に限らず、働く大人にとっても、うれしさのない夏休みって何なのだろう?
 思うに、縛られている感が強すぎて、よきことについてさえも自由に自分らしく好きなように取り組むことができないからだ。閉塞感と言ってしまえばそれまでだが、とにかく縛る材料だけが膨張し、取り組む際には意義も感ぜず、こなしてなんとか抜け出すことしか思わなくなってしまう。教員も同じであろう。
 これが夏休みという期間にとどまらず、年間を通して覆う空気となってきた。冗談ではすまされない域へと入ってしまったと感じる。取り残された上履きのように、忘れ去られた哀愁をただよわすだけの己の理念が何とも寂しい。
 いつか、学校は生まれかわるはず。と、願ってやまない。袋小路に追い詰められて、逃げ道はなく、決められた出口らしき方向へと半ば強制的に送り込まれていく。ポジティブに未来を想像すればいいのはわかっているけど、ネガティブなストレス材料のみが次から次へと降り注ぐ。○を理想としてしっかり取り組み、●であれとする。「どうすりゃいいのよ」てことが日常茶飯事。矛盾という枠の中でひたすら走り続けるだけの現状にポジティブになれと言われても無理としか言えない。それでも多少おちゃらけて現状理解と改善に進路をきるが、すぐ目の前に退路が大きく口を開けている。
 話は変わるが、私が中年を迎えるころからよく使われた言葉で、「先生方の専門性で○○‥‥」。その専門性という言葉に踊らされたのか、何か誤った道を進ませる片棒を担がされた気がして心苦しい。専門性?教育に求められるのは専門性ではなく、人間性に培われたバランス力であろう。専門的な見地から新たな試みがいたるところから出され、あふれかえっている。そしてどれもがAの部分は「是」だがBの部分は「非」であるような曖昧模糊としたものに見えてならない。 本当に頼れるものが見当たらない教育。もう一度人間に帰るべきだと強く言いたい。人間がその子がその状況でするだろうこと、してしまいがちであること、思うだろうこと、考えるであろうこと。その部分はもう決まっていることと処理されて、メソッドだけが遂行されているのが現状なのだ。
 教員にとって、「うれしさも楽しさもない教職」であっては悲しすぎる。メソッドだけを覚えても本質を理解したことにはならない。うれしさのない夏休みはうれしさのない教育へと、そしてそれをうれしさのない社会がほくそ笑んでいる。

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今、私の願い事がかなうならば翼がほしい♪
この背中に鳥のように白い翼つけてください♪
この大空に翼を広げ飛んで行きたいよ♪
悲しみのない自由な空へ翼はためかせ行きたい♪
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作詞の山上路夫さんはどんな重圧、縛り、ストレス、規制、既成を感じていたんでしょうね?

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