Vol.41 春闘から見えること

 春闘から見えること

 2020年2月11日 「三菱UFJ銀行 一律のベアやめ成果重視へ」のニュースがありました。
 世の流れはこうなのだなと痛感した次第です。
 労組側が「すべての従業員に支払う給与とボーナスの総額の引き上げを要求し、成果を重視して賃上げに差をつける仕組みの導入を交渉する」とのことだそうです。
 労組の面目としては、「すべての従業員に支払う給与とボーナスの総額の引き上げ」なのでしょうが、「成果・能力(人事評価)によって賃上げに差をつける」ことを合意する方向とは><;
 能力・成果を正当に評価し、賃金に差をつけるのは、ありがたいことだ。と、たしかに思うところもあるでしょう。私も業種によっては、なるほどありだとは思いますよ。しかし、短期間に成果とでっちあげることができる賢さのある者だけがもてはやされていくのだろうと、私は危惧するばかりなのです。こうして、ずるく賢く成り上がる術を持った者達が創造する世界(社会)に美徳を感じ取れません。これが世の流れ、おもねることで成り立つ社会の構図なのかと思いました。
 我々の業種、教育の世界でも、実績・成果で評価されていますよね。自己申告に今年度すべきこと、つまり目標ですね。それを書いて、中間申告して、最終申告して、達成できたかどうかを数値化、いや記号化してAやらBやらCやら書かされますよね。もし「わかる授業を展開する」としたときに、中間申告(進捗状況7月)で達成できましたとは書けないでしょう。最終申告に至っても達成していると言える先生はいるのでしょうか?よって、「今年度は〇〇のチーフとして、委員をまとめ成功へと導く」といった内容になりがちですよね。結局、多くが大人の仕事(業務)について、短期で数値化して明示できる内容となってしまいます。生徒がどうあったという結果のなかなか見えてこない、成果のはっきりしないものをうたうことは難しいのです。評価する側もよくわからんことを評価はしずらいので、はっきり白黒つけられるものを要求するのでしょう。
 教育界に長い目で見る姿勢はもうないのかもしれません。失敗すれば、排斥されることとなり、格差を助長する構図となるわけです。学校が大人の事情を優先するようになってしまい、子供のことを考える組織としてのきらめきは失われてしまったのです。成果を求めることに終始するより、成果があったかは、生徒の何年後を見てわかる場合もあれば、未だに解らぬこともあると、じっくりと待つ姿勢が必要かと思う。教師が実績や成果にとらわれず地道に残してきたものを、その子が気づくか気づかないかぐらいのところに成果とよべるかもしれない意味があると捉えるべきだと思います。
 我々が見える成果ばかりを見据えて、生徒に指導していけば、生徒もその価値観でものを捉えるようになっていきます。だからこそ、損得や成果・業績といったものとは違うところにあるすばらしいものを、子供たちの中に種として残していくことが必要なのだと思います。わけのわからぬことをさせられ続けて、その機会すら奪われていき、素敵なものにも実感を持てず、間違っていることにも関心を持てなくなる社会を生み出すことに加担したくはありません。

 世の中は、成果ととれる特化したものを身に着けることが、勝ち抜く手段であるという暗黙の了解の上に成り立っている。新たな品種を産み出しブランド化し、商品登録やら特許やらをつけて特化させ、あわよくばひとり勝ちすることを美徳と思っているのだろう。ありふれた普通のものがあってこその特化であることを忘れてはならない。向上心をもってより良いものを生み出す精神は尊い。しかし特化したものが、普通のものを凌駕し、勝利に置きかえて、他を排斥する運びとなるのはおぞましい。秀でた特化すべきものなくして生き抜けない社会で、子供誰もに特化すべきものを持たせられるわけでもない。普通の生活、営みの中にあるほのかな喜びや楽しみを感じ取れる情緒を養うことが急務であろう。普通という名の土台なくして特化を語ってはならない。お金がなくたって、地位がなくたって、味わえる幸福感のあることを、その喜びの種を我々は我慢強く気長に植え続けていかねばと思う。

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