Vol.3 クリエイティブな未来を願って……

クリエイティブな未来を願って……   

 2020年東京オリンピックを見据え、「テロ等準備罪」が衆院を通過した……。今に始まったことではないが、また、オリンピックが権力者の思惑に利用されてしまうことになるのかと。
 オリンピックを開催するにあたり、安全を確保するのは当然のこと。未然に防ぐためには、あってしかるべき法案だと云う。オリンピックが終わってもこの法は残り、時の権力者を守護すべく異彩を放つこととなるのは見えている。関連して憲法の部分改正・改正へと流れていくことだろう。
 「立法権」を持つ国会が、ある種の「法」を産み出した時点で、その法は「権威」となり、「司法」をつかさどるものも、法に倣う沙我を負うため、それはゆるがすことのできぬものとなり君臨する。
 一般の人々にとっては、なんとなく得体のしれない圧力・恐怖として認識されていくことだろう。言い方をかえれば「脅し」によって脅えさせ、事を起こさない気運を造ろうとしているわけである。
「国家の存亡を揺るがす事態」が、いわゆる「イスラム過激派テロ」や「北朝鮮問題」だけを指すはずもなく、「国家の存亡を揺るがす事態」→クーデターの未然回避 →思想信条の封じ込め へとつながっていくと予想される。
 かつての日本が治安維持法やら国家総動員法により、思想の自由を制限されたごとく、いつのまにか脅威は覆いかぶさり剥げなくなるように進行していく。
 暴走する重戦車を止めるすべを失いつつある現在、教育の現場とておなじ兆候が見えている。「こうしないと大変なことになりますよ!だから、すぐしなさい!」と、恐怖で封じ込めて、思考の根を断つ手法をである。考える余地さえ与えられず、考えてもつぶされることに慣れた彼らが、世の中でまた、同じ経験を積んでいく仕組みと遭遇する。無力感をまとい、とげは抜かれ、追い詰められても噛みつきもできない鼠となってしまうのだ。去勢され、思想信条を持てる性質として育ってはいないのである。
 自分たちで考え、創造し、生み出すことの喜びや楽しみ、そして意味を、とりまく状況や雰囲気とともに風を感じ、良かれと思う方向へ湧き立つ波として表現していくことを、彼らは経験してほしいものである。その経験から導かれる思いこそ、世の中を変える力となるはずだ。ある風が吹き、その時を生きている彼らが、あてがわれたものでない、「その時に見合った方策を感性を活かして生み出していく姿勢」を教えるべきだと痛感している。上からたたき込む(思考も判断もさせない=彼らが考えるべきことも、ある方向へと誘引する)教育の流れに、社会を見つめ、世の中を見つめ、学習の喜びにつながる力が無力化されていくのが残念でならない。
 危機感。それは、彼らが自分たちの意思をもたずに、身を委ねているところに尽きる。
 また、教育もそうすべき様相をもって流れていく。
 子供のころ子供同士で遊ぶ中に「学び(教育)」があったと思う。時にはこうしたらどうだろうと模索したり、時には遊びのルールらしきことに理不尽さを感じたりと、その場の空気の中で思いが交錯し、風となって吹くときもあれば、絶望にも近い孤立感として留まってしまうことも経験しえたであろう。ところが彼らは、幼いころから、大人がいる「管理」された環境でそこのルールの中で生活することが当たり前となっており、自分たちでよきルールを創造する機会を有してないのがほとんどである。
 「遊ぶ」ことが敬遠される世の風潮の中で、親たちは、大人の目のとどく(あらかじめルールがはっきりしている)「習い事」「スポーツ」へと誘導する。学校はあるにしろ、子供たちが思考する機会はほとんどなく「管理社会」の礎を築いてしまっているとさえ思えてしまう。
 人間の尊厳の「安全」が自国の社会の風潮におびやかされている―――。自分たちで作り上げるから面白い、自分たちで工夫できるから楽しい。気遣いという下地の上に構築する職人芸は、我が国の最も誇れるブランドではなかったのか……。合理化・画一化の流れのなかで、国家とともに「らしさ」を失っている気がしてならない。

白髪レガシーVol.3 PDF