Vol.43 行き詰って暴発

 行き詰って暴発 2020.2.26
(ロシアンルーレット=責任の流し合い)

 「Fukushima 50」という映画が公開間近に迫っている。その内容がどういうものなのかわからないが、あの原発事故の詳細やその後については、私を含め、よくわからない人が多いのは確かだろう。当時、現場で奮闘した吉田昌郎所長はじめとする50人(正確には69人)から「Fukushima 50(フクシマ ヒィフティ)」と、のちに欧米メディアから呼ばれた。このタイトルから想像するに、現場にいた彼ら目線、つまり、人間ドラマであるとの見当はつく。その意味で楽しみな映画である。

 さて、東日本大震災の翌日(2011年3月12日)、当時官房長官だった枝野氏を東京(官邸)に残し、菅首相は現地に赴いた。その時、私は、「首相自ら行くなんてすごい!」と思った。ある意味たいしたもんだとも思っていた。現場で右往左往する者を束ねて、陣頭指揮をとり、喝を入れ、道筋をつける思惑だったのかなぁと想像する。しかし、首相が行ったところで、「どうなってんだ!これは!」の思いに駆られるばかりであったろう。状況がのみ込めず報告を求める首相の気持ちが、のちの「イラ菅」と報じられることとなった。
 東電本店、政府が指示することを、理解できたとしても、それを実行するのがとてつもなく難しいことであるのを鑑みなければならない。菅首相とてそれ(現場でなければわからないことがあること)をわかった上で行ったにもかかわらず、自分ができることなどないという当惑が勝ってしまったのであろう。それでも、せめて当事者達にむけて激励してあげられたならば‥‥‥。あれ!?、どこかのこ、こぅ、社長じゃあるまいし><;。

 結局、最終的に手段を講じるのは、現場にいる人間なのである。どんな命令があったにせよ、それを行うために施さねばならぬ事柄も整理(対処)して、やっととりかかることができるものだ。「すぐやれ!」と言われたって、すぐにできる状況でないこともあって当然。
 巷でよく耳にする「最善の処置を執るよう指示した。」という言葉。最善の方策と思ってそれを講ずるのは現場。結局投げ捨てられて、忖度して、やらされるのは現場。うまくいかなかったら、責任を問われるのも現場。うまくいったとしても、誉められるのは指示した上の方で、「あそこはああしといた方がよかったんじゃね」と難癖をつけられるのも現場。そう考えると、とても無責任な言葉に聞こえてくるのだ。
 日本の運命を背負って、決死の覚悟で臨んだ吉田昌郎所長はじめとする福島第一原発の現場の人々に敬意をはらいたい。

 コロナウイルスが、徐々に足元に迫る中、これも、最善の処置を執るよう「万全を期すこと」に落ち着く気がしてなりません。どうするかはあなたたちが判断しなさい。「うまくいかなかった(発症者・感染者が出た)場合は責任問題となりますよ。」といった具合に。

 まるで、『ロシアンルーレット』、「責任」の弾をうまく受け流して次に廻すだけ。『黒ひげ危機一髪』、誰かが責任の地雷を踏んだら、すべての責任をそこになすりつける。いつまでこれを繰り返すのですか?

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