Vol.25 塗り絵の教育

塗り絵の教育

 輪郭線という枠組みが施された絵に色を塗っていく作業。輪郭線があるという制約をはじめ、なかにはこの部分はこの色で塗りましょうと指定される場合もある。独創性はおろか、創造性の欠如した次元を離れることなく教育は推移していくばかりである。クリエイティブとはほど遠い。教師は専門職とは言われながらも、職人としての評価をされることはない。目に見えて、何か任された仕事に無理矢理意義を設けて実践し、やったことを高らかに表明しなければ評価されることはないのだ。
 子供たちが将来どんな大人になっているか、その結果も見えないうちに、方針が目まぐるしく変化し、振り回されて、右往左往するのは教師たちなのである。昨今の情勢は「子供たちの将来を見据えて、何を施すか。」ではなく、「教師たちを安く使うべく、どう言うことをきかせるようにするか。」に移行してしまった。「働き方改革」を逆手に縛りを強めているのが何よりの証拠だ。教師を都合よく使うために道徳の教科化もあるといえよう。さもしい世の中。日常は「対処」に追われて終わる。生産的な活動を教師が執れる時間はほとんどない。その時間を意図的に奪われてしまっているとさえ感ずる。そこまでして教師を追い詰めるのはなぜなのか。おそらく、上の者は自分たちが責任を負うことがないようにするためのもの。たとえ不測の事態となった折にも、「教師たちがきちんと掌握し、適切な手段を講じなかったため」と我々を悪者にして逃げるのだろう。適切な手段を我々に示したこともないくせに。
 実態・実感の伴わないうすっぺらい疑似体験に終始する。3年が行う「全国学力・学習状況調査」の「国語」の問題にいたっては、①「新聞(メディア)」をどう受け入れるかに始まり、②「話し合い(会議)」の在り方を経由して、③「意見文の書き方」で終わる。漢字の一つすら書かせることもなく、文学の味わいに触れることもない。すべてはコミュニケーションを念頭に置いた問題となっている。無駄なこととは言わないが、終始してしまうほどの偏り方こそが、危険に見えてならない。「国語の学力ってそれだけなの?」って率直に思ってしまう。子供たちがいずれこれが国語の学力と思ってしまうとしたら‥‥。形骸化して着地点
がぼやけ、落ち着く場所を見失った教育は、今後も子供にとって力の付かない塗り絵ばかりを教師にさせていくのだろう。
 前号でも法については書いたが、4月18日「法に関する教育の推進」という色刷りのパンフレットが配られた。SSSの方が配っていたのだが、管理職自ら配ればいいのに、授業にも関わることだというのかはぐらかされていく。こんなものに一体いくらの金をかけているんだと言いたくもなる。
 「令和」という元号が、マスコミをはじめ人々に称賛され受け入れられている。元号発表のおり、誰かから「この元号どう思います」と聞かれたことがあった。私は「あまり面白くはない」と答えた。きっと何かの思惑があるはずだ。きっと全ては繋がっている。と感じたからだ。そもそも元号の選定の理由に「万葉集」の一節から云々の注釈が必要なのか?なんでそんな注釈を加える。「平成」誕生の時にはなかったぞ。天皇から一般庶民まで幅広い階層の歌を収める「万葉集」の良きイメージを利用したかに見える。私のように、「和することを令ずる」とか「令して和せ」ととらえるうがった考え方をする輩を封じ込めるために‥‥。全ては繋がっている。そんな風潮の中出された宣誓書への署名捺印。そしてさきほどの「法に関する教育の推進パンフ」。日野市もそれを感じたのか、5月1日からの「令和元年」取り扱いの通知。
 この原稿執筆中(4/19朝)に全校朝礼があったため、筆をおいて体育館へと向かった。校長の話は元号「令和」について‥‥。「はじまったよ><;」って思った。話は「万葉集」へ。「やめろ~><;」って睨んでいた。結局、「だから何なの???」ぐらいの落ちのない話で終わったからまだよかったが、きっと落ちが付く空気に自然となるさよう、上から指令されているかにも見える。組合は力を失った。今こそもの言わせぬ世の中づくりとばかり、働き方改革というもっともらしいきらびやかな旗を揚げつつ、無理難題を施しても、文句を言うことができないくらいに忙しさの中に埋没させるまやかしの手法。やはり、すべては繋がっている。塗り絵をなぞるしか道のない教育。おじいちゃんは怒ってます。

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