Vol.8 日本人の心と教育

ー日本人の心と教育ー

 東京オリンピック招致の際に話題となった「おもてなし」。言葉の響き、言葉の意味、言葉をとりまく状況・雰囲気・イメージ。すべての事が揃っておりなす「そうそう、それ!」という感覚。
 もし、「おもてなし」という言葉が利用・悪用されたとしたら‥‥。”弊社では、①○○、②△△‥‥‥‥⑧◇◇ のおもてなしをモットウに宿舎事業を行っています。”などと聞いたらあなたはどう思いますか?「おっ、いいサービスやってんじゃん!」と思う人もいれば、じじいのように「なんと興ざめなことよ><;」と嘆く人もいるだろう。この埋められない感覚こそが現代に表出する問題の多くかと思う。「おもてなし」が別の意図をもって独り歩きをさせないでほしい。儲けとか都合とか人間の汚いところにまみれさせて使ってほしくはない言葉のひとつなのである。
 そういえば、「忖度」はすでに汚さにまみれた言葉へと変容してしまった。

 6月6日(水)、中教研国語部会に行った。ビデオ映像の中に、「枕草子」学習後の取り組みなのか、生徒自身がものの良さを感じるものを発表している様子があった。「○○○○、いとをかし。」といった形で。
 生徒が思うものの良さであるから、そこに文句をつけるつもりはないが、「それは『をかし』なの?」って感じる場面があったのである。

 光村図書では、相当気を使っているのか、つぎのように書かれている。

 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
 夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
 秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
 冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もて渡るもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。(第一段)

 春は明け方。だんだんと白んでいく山ぎわが、少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいている(のは風情がある)。
 夏は夜。月のころは言うまでもないが、闇もやはり、蛍が多く飛びかっている(のがよい)。また、ほんの一、二匹ほのかに光って飛んでいくのも趣がある。雨などが降るのもいい。
 秋は夕暮れ。夕日が差して山の端にとても近づいたころに、烏がねぐらへ行くというので、三、四羽、二、三羽などと飛び急ぐことまでもしみじみとしたものを感じさせる。まして、雁などが列を作っているのが、たいそう小さく見えるのはたいへんおもしろい。日がすっかり沈んでしまって、風の音、虫の音など(がするのも)、これもまた、言いようもない(ほど趣深い)。
 冬は早朝。雪が降っているのは、言うまでもない。霜が真っ白なのも、またそうでなくても、たいそう寒いときに、火などを急いでおこして、炭を持って(廊下などを)通っていくのも、たいへん似つかわしい。昼になって、(寒さが)だんだん緩んでいくと、火桶の火が白い灰ばかりになって、好ましくない。

 清少納言は「をかしの文学」、紫式部は「あはれの文学」などとは言われるが、清少納言のこの段の中にさえ、もののよさを示す言葉が三つでてくる。一つは「をかし」、二つ目はカラスがねぐらへ帰る様子を「あはれ」で表している。三つめは「つきづきし(似合っている)」である。加えて、「わろし(好ましくない、みっともない)」という逆の価値観も述べてもいる。
 せめて、「をかし」とはどんなものの良さなのか、また「あはれ」とはどんな良さなのか、という相違点を踏んで、清少納言の感覚を感じ取らせたいものだと感じた。
 例えば「をかし」はどちらかといえば前向きな明るい陽性の「すばらしさ」であり、「あはれ」は控えめで、もの悲しさの伴う陰性の「しみじみとした情緒」というふうに違いを感覚としてとらえさせないとやばいなぁって思った。音楽で言えば長調と短調(メジャーとマイナー)のような関係と。メジャーコード(和音)だからといって、悲しい曲ができないわけではないし、そう見れば相互に入り組む部分は確かにあろう。 ただ、清少納言がどうその良さをどんなふうに感じえていたのかを、体言止め・連体終止といった省略された部分を含めて、もう一度生徒たちに体感させる必要が確実にあるのだろうと感じた研究部会であった。

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