Vol.24 ご時世なのかね。

ご時世なのかね。 

 法令にあること、マニュアルにあること、決められていること。それをなぞっていけば、正しい教育がもたらされるとする風潮。起案の中に記された事項をもって、すべてを網羅していると勘違いする風潮。管理職の答弁も昨今の国会と同じく要領を得ないが、指導要領というまったくもって要領を得ないマニュアルの遵守。はがれかけたうわっぱりの上からさらに塗りつぶしていくようなもので危うくてしようがない。
 縛られ続けて、硬直化し、ついには色も現わせぬようになっていくのか!?
 教員の働き方が変わってきてしまった。図らずとも「働き方改革」を実践してしまっているかに見える。
 決められたことを書かれていることをこなすのが教員の役目であり、淡々とそれを実践することがなにより大事であるかに仕組まれている。
 やらねばならぬとされていることに追われ、やりたいことに手を付けられずにいるのが現状であろう。
 ある行事を企画するチーフがいて、起案し教員各々に役割を振り分けたとする。役割を与えられた一教師は、前年はどうやっていったのかを調べる。前年度の資料があれば、それに沿って役割を把握し計画する。そして実践。それが延々と繰り返されている。意欲をもってことに臨めないような現状であるのだから、やむをえまい。割り当てられた自分の仕事をこなすだけとなるのだ。
 でも、言いたい。
 担当者やチーフ・上司に報告・確認せずともうまく流れるよう、素敵になるよう、未来をイメージし、役割にアレンジを施してきたものだ。
 自分の任された範疇で自分なりにこれがいいと思うことをし、自然に力まず、押し付けずに試行してみることだ。
 法律家が数多六法全書を余すところなく頭に入っているかと言えば、そうではないだろう。教師だって、「教育基本法」や「学習指導要領」を全て頭に入れて、実践している人などいるわけもない。全てを暗記することは不可能に近いのだから、あとは「自分を信じる」=「自分の範疇にゆだねる」しかない。自分が「さすがにこれはないだろう」「これは思っていたよりいいかも」とするような自分なりの価値観をである。それはよく塩梅(按排)とか裁量とか言われるもので、自分なりに見立てて、良きと思われる方向に向かって、これぐらいの量でこんな感じで施してみようとする試みである。その場にみあう味付けをして提供するぐらいの教師の道楽が許されたっていいのではないか。何かといえば、起案は書いたのか?主任に報告・相談したのか?指導要領に目をとおしたのか?道徳をちゃんと実践しているのか?その問いかけにも似た圧力に対し、事細かに報告しているうちに萎えていってしまうのは私だけなのだろうか?「言われるまでもなく、うまく仕上げたり、落としどころを見つけたりする」工夫する精神こそがこれまでの教育を支えてきたと思えるのに。「ここに書いてあるこれを使って、このとおりこうしなさい!」ここに教育の育つ姿を見ることはできまい。実践例や研究といった書面には決して表記すらできぬところにある取り組みにこそ教育の熱意が存在していたというのに‥‥。

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