Vol.32 狭き隣人愛

 狭き隣人愛

 究極の選択に迫られたとき、最終的に自分が損することを嫌うのが人間。得にならないものは排除する。我々を含め現代はその究極の選択を常に迫られている。だから、いつだって安易な妥協の道を選ぶこととなる。
 原理を無視し、自然と対抗し、砂上の楼閣を築くことに頓着してしまう。
 他を嫌う性質のある動物の一つであるだろう人間。異質なものを拒み、追い払う形で自分の存在する場所を拡げていく。
 現世の偉い人の多くも「経済的な成長=人類の進歩」と考えているようだ。裏返すと、「あっていいのは人類の進歩で他が進歩する必要はない。よって、経済的発展こそが我々人類の課された仕事なのである。」となるのだろう。
 ともあれ、最終的には、自分で自分がエゴイスティックな判断を下すことにも妥協する。
 人の精神はまったくもって進歩していないのではないかと思う。「こうすると便利だよ」とか「このほうが得じゃん」「これだと損するなぁ」といった損得勘定において「得を得る」ものが正解であり、発展であり、事実上の人類の進歩と同化していく。「儲けることが企業の論理。それが経済を支え、人類の進歩を促している。」という精神抜きの思いあがった論理の構築を始めてしまう。
 それでも、人間の中には「損得」にとらわれず「善きと思われる方を向く」ときがある。自分が向き合うものの中に魅力があれば、貧しかろうと前を向いて頑張るのである。「魅力‥‥‥」ありますか? 就職の際、二つのどちらにも魅力を感じぬ候補があったとしよう。どちらかを選ぶ時に賃金の高い方を選ぶでしょう。だって、その方が得だから‥。教育界も社会と同じ、魅力のないものとなってしまったのです。「子供達の素直なはじける笑顔」を求めながらも「暗くよどむ子供達の屈曲した思考」へと導きかねない現状。教師もわりの合わないとばっちりなど食らいたくないから、自分が損しない方を選ぶわけだし‥‥。魅力を現世の論理が凌駕する空間、それが教育現場なのでしょう。「精神の発達」「精神の進歩」が感じられますか?逆に退化していくように感じられてなりません。
 地球温暖化をはじめとする人類だけに限らぬ事柄を誰もが(偉い人たちも)大問題と考えていながら、自国の自身の営利の前に撤回・脱退の道を選ぶ。
 人類にとって良いならば→自分の国にとって良いならば→自分にとって良いならば――。エゴイスティックに狭き方向へと突き進む。そしてそれがループする。しかしながら初めから人類以前の自然をと顧みることはない。
自分のいる人類というステージが最底辺なのである。隆起しては狭く危うい利己的思考へとそそり立つ。
 人類発展の喧騒の中で、聞こえづらい声を聞くことこそが大切だ。
 前にも書いた気はするが、「本質ではない、本質らしきものを、本質として構築する術こそが、本質であるとする」この社会を、教育界を鑑みてあなたはどうおもいますか?


 隣人を愛せよ! 隣人を愛する気もないのにそういうスタンスをとってしまう我々。隣人は隣に住む人だけではなく、自然界に生きるすべてのものぐらいに思う姿勢が人類にあってもいいではないか!

 戦争について語る際、どうすれば勝てたとか、兵力や戦術がとか、兵器がとか、テクニカルなことで語られやすいが、丸山議員のごとく戦争をテクニカルな手段として利用するのが当たり前と思われる者が現れた中で、我々老人教師が思想信条の自由もあってか、子供達にその本質的な恐ろしさを語ってこなかったつけがまわってきたような気がしてならない。

 to kazuto  「神様」によせて
              隣人の兎さんとの月見

普通にこんなんあってもいいよねぇ

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