Vol.54 分断 VS つながりのある教育

 今回は真に「戯言」というノリでレガシってみようかと思う。

 卒業式も入学式も合唱祭も運動会も単なる一つの行事(イベント)と思っている先生が多いですよね。
 イベントには違いありませんが、じぃ の(じぃ達の)目標到達点(Goal)は、「卒業式」というところにありました。
 「卒業式 は 卒業証書授与式 である!」とするところとの戦いを経て、現在のような式があるのですが、その源は、生徒たちが学習活動の集大成としての成果の場であると思っているからです。
 つまり、生徒が入学した時点からその学年の三年後の「卒業式」では、「こんな生徒に成長しているといいなぁ」といったイメージを持って、各種活動・行事・学習に取り組ませてきたのです。
 諸活動の積み重ね・つながりの先に「卒業式」を見ていました。朝礼、始業式、終業式、挨拶運動、清掃活動、委員会活動、運動会、合唱祭、旅行行事、体験活動、日々の教科学習‥‥。その先にあるはずの「卒業式」を創造せんとしてきたのです。

 どの学年に移動させられるかもわからず、三年間を見据えて受け持つ学年が見通せない現在となっては、難しいことなのかもしれません。

 分断の中に学校もある。と、感じています。行事も別箇の一つとして認識され、教員も単なる駒として振り分けられる。教科間の連携を模索した「総合」は、細分化した一つ一つの項目をたどるようになってしまいました。
 教育のあり様であった「つながり」というものが、見えない(見にくい)ステージになってしまったのです。

 この学校に赴いた年度の卒業式、「優秀そうな生徒達が儀礼的な言葉をつづっているなぁ」と感じました。「もっともらしい言葉はではなく、気持ちの感じられる言葉では駄目なのかなぁ。いちいち言葉をしゃべる子も、指揮者も、伴奏者も、礼に始まり礼に終わるぶつぶつと切れる儀礼的な形でなければならないのかなぁ?」とも。
 学年の先生たちがそう望んで、そう指導してきたのだろうから、そういうことなんだろうと思っていました。まぁ自分が一年生から持ち上がった学年では、動議を出してでも自分のわがままを通したこともありました。

 「あいさつの○○中!」って言われますよね。
 生徒たちもその伝統を口にしますよね。
 コロナ禍で「伝統」も「遺産(レガシー)」となっていくがごとく、卒業式を含めた諸活動も伝承の機会もなく、名実ともに「形ばかりの血の通わぬもの」として記されていくのでしょう。
 見ること・聞くこと、体験することもなく慣例としてのみ繰り返される行事の教育的損失は、計り知れないほど大きいものだと思っています。

 こころない形式的な舞台で、こころない言葉を発し、こころなく賛同する。戯言の域は出ませんが、若い皆さんにもわかっていただきたくレガシってみました。    2020.11.12

白髪レガシー Vol.54 PDF