Vol.19 心の灯を失う前に

心の灯を失う前に

 生徒の内なる可能性を発掘・支援し、彼らが能動的に学びを育むために教師があると信じている。
 その能動的な学びにとりついてか、アクティブラーニングやら協働学習やらとメソッドは生まれはするが、その際、基盤に置かれるのは常に上位の者であり、上位の者の手助けによって下位の者も引き上げようとするものである。つまりある子が能動的でなかったとしても、能動的な雰囲気の中で、能動的な状態へと仕向け、見せかけるのである。「動きがあった」「発言した」といった見てとれる結果だけが取りざたされ、本当に意欲や関心をもって参加していたのかは疑わしいことは多い。
 それはそうだ。人間はいつでもどこでも関心をもってことにあたるわけでも、何に対しても興味を抱くわけではないのだから。すると、だからこそ無理にでもメソッドを用いて行う必要があるのだという声が聞こえてくる。そして、どうどう巡りの状況に陥る。ついには、やらないより、やったほうがマシじゃん!となる。こういったスパイラルについては前にも述べたが、言えることは、生徒が自覚していようがいまいが、「心根にある灯を失わせないこと」である。無機質な味気ないところに幽閉してしまわないことである。灯を明るく輝かせる方向へ誘えるかが問題だと思う。ところが、灯さえも消してしまう恐れのある昨今の状況。「いったい、どうすりゃいいのさ?」という出口のみえない袋小路に追い込まれる仕様となっている現代社会。
 思いどおりの人生をおくれている人は少ないだろう。思いどおりの職業についている人も少ないだろう。それでも、ここに生きているというのは、心の灯を消していないからである。まったく別の方向に進んでしまったとしても、機会があればそれをやってみたいという希望を消してないからなのである。これが、「夢」という形でよく語られるものだ。夢を失った先には死が見えている。だからこそ、子供たちの心の奥に灯っているだろう淡き光を、彼らの自身の力でより高く輝かせるよう見守ってあげなくてはならない。「いじめ・パワハラ」の件でも、「シリアでの安田純平さん拘束」の件でも、「英語の授業で取り上げられたハゲワシと少女の写真(Kevin Carter写)が生んだ善意と悲劇」の件からもわかるとおり、「どうすれば、よかったんですか?」の疑問に対する答えは返ってこない。この「どうにもならない混沌」こそが現代社会の大課題なのだ。ときおり、危ないところに入っていかない!むごい場面を見させない!ことが正解であるという声が聞かれる。でも、裏を返せば「見て見ぬふりしろ!」ってことではないか。辛いけれど、それを映し描くことから、灯る光があるはずだ。我々の心の中に眠っている灯にも勢いをあたえてくれるはずなのだ。煙に巻くことに終始する昨今に真実の灯りをとりもどす術ではなく、基盤をつくってあげなくてはならない。「何を感じ、何を思い、何をするべきか」を、一人一人の生徒が能動的に取り組む基盤をである。
 現代社会に巣食うジレンマを描いた詩を紹介する。

夕焼け     吉野 弘

いつものことだが
電車は満員だった
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
例もいわずにとしよりは次の液で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で例を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀相に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて--。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

 例えば、この詩を読んで、「あるある。そう、無駄なことはしないようにしよう。」と思ったとしよう。その瞬間、自分の心がチクリと小さな痛鳴を発しはしなかったか。
 その痛みを覚えた心こそが、心の灯だと私は思う。

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