Vol.33 現代のものの捉え方

現代のものの捉え方 

 私事の教科のこととなるので、大変恐縮ではあるが、聞いてもらいたい。
 下記に書かれているのは、第一学年で学習する「竹取物語」の冒頭部である。(上段が古典文、下段が教科書の訳)

 今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、さぬきのみやつことなむいひける。
 その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。

 今ではもう昔のことだが、竹取の翁とよばれる人がいた。野や山に分け入って竹を取っては、いろいろな物を作るのに使っていた。名前を、さぬきのみやつこといった。
 (ある日のこと、)その竹林の中に、根元の光る竹が一本あった。不思議に思って、近寄って見ると、筒の中が光っている。それを見ると、(背丈)三寸ほどの人が、まことにかわいらしい様子で座っていた。


 些細なことかもしれませんが、気になるのが、「まじりて」を「分け入って」と訳すことなのです。「竹取のじいさんが、竹や草をかき分けて山に入る様子とイメージして何が悪いのか?」と思いますよね。確かに悪くはないでしょうし、じいさんはそんな様子だったのかもしれません。しかし、作者が誰かもはっきりしていない最古の物語だからといって、安直に解釈すればいいわけではないとは思うのです。まあ、どの古語辞典で調べたところで、「まじる」は、竹取物語のこの部分を用例として、「(山や野に)分け入る」となっているのでしょう。だから、だれも疑いもせず「分け入る」と訳すわけです。おそらく、これは最初に訳した人が「分け入る」と訳したために、教科書も辞書もみな準拠していったように思えるのです。
 自然と一体化し、共生し、毎日のように山に入って、無駄を作らず、丁寧に竹細工をこさえ生活するこの辺りではちょっと名の知れた実直な職人(ものづくりの匠)という翁の人物像。子供向けの童話としてかたるならば、「そんな自然とともに毎日竹の山に入り、自然と融合した生活を送っている翁だからでしょうか、根元の光る竹を一本見つけたのです。」ぐらいの意味合いととらえればよりつながりのあるものとは見えないでしょうか。
 本年度の一年生が、質問してきたことがきっかけで考えてみたのです。その時の質問は「なぜ、最初に『竹取の翁といふものありけり。』と紹介していながら、三文目で『名をばさぬきのみやつことなむいひける。』とことさら紹介するのか?」といった内容でした。
 三文目には「なむ」が入っています。係り結びを起こして文末が「ける」になるなども解説はしますが、「なむ」って何だと思う?って返します。子供たちの中からしばらくすると「強調」と出てきます。つまり翁について、作者がより読者に伝えたかったのは三文目の方です。教科書の訳では「名前を、さぬきのみやつこといった。」とあり、あたかも山田花子のように苗字と名のようにとってくれてけっこうみたいに淡々と訳していますが、みやつこ(造)とは造り手(職人)であり、作者はそちらを強調したかったと読み取れます。連れて帰られた娘は籠の中で、大切に育てられます。その籠は、もちろん翁が竹を編んで作ったものだと想像できるでしょう。
 子供のいない翁という人物の柔和で誠実で愛に満ちた人柄を想像してあげられるといいかと思います。

 「つながりをもってものをとらえる」ことが、文学に限らず、現代社会に欠如しかかっている問題点なのかと思っています。安直に部分として完結すれば善しとする現代。積み重ねていったところで何のつながりがなくてもOKとしてしまう現代社会。
 決してつながることのないそれぞれの科目の学習をするより、つながることへの希望をもちつつ学習するほうがどれほど楽しいことだろうかと思った次第です。

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