Vol.44 「空き地に土管のある風景」から続く不安

「空き地に土管のある風景」から続く不安
 
 卒業式が縮小された形で行われる見込みです。
 儀式の部分はほぼ変わらず、生徒の活動の場面が大幅に削減される見込みです。
 このコロナウィルスの件を機会に、来年度以降、儀式的な側面が強化され、生徒における中学校の集大成となる活動の場面がさらに衰退していくのではないかと危惧しています。
 若い人たちにはわからないのかも知れませんが、生徒が中学入学したと同時に、我々は理想とする卒業時の彼らの様子をイメージしていました。「こんな卒業式を創造してほしい。」という具合に。そして、そのために、運動会、合唱祭、遠足(FW)、移動教室、修学旅行等、行事を通して、一つのゴールとなる卒業式を見据えていたのです。ある意味、今でいうところの総合的な時間ともいえる取り組みかもしれません。
 もう誰も不思議に思わないでしょうが、昔は卒業制作というものをやってました。卒業文集や学校に残す「校歌のモザイク」をはじめとする一般的な卒業制作ばかりでなく、私が経験した中では、体育館の会場の内壁、向こう正面を飾る横10M、縦4Mにもなる壁画(垂れ幕)を作ったりもしました。もちろん、それが簡単にできるわけではないので、運動会では各クラスで応援旗ならぬ応援垂れ幕をつくり、クラスの窓から垂らしたものでした。その素養を活かし、卒業式会場に大垂れ幕を下げたりしたのです。また、「卒業の歌」を製作させたこともありました。詞を書かせ、曲を作らせ、合唱にして歌うのです。もちろん一年次から「学年合唱大会」のようなことも行い、合唱コン・学習発表会に向かわせたものです。いわゆる学習の活動の集大成の場として、卒業式をにらんで取り組んできたわけです。文化祭(学習発表会)や三送会が無くなる中でも、数々の抵抗を試み踏ん張ってきました。それが、卒業生が雛壇に上がり対面する形でもあったのです。現在もその形は残っていますが、中身が薄れてきたのは容易く想像できるでしょう。
 子供たちの損得を超えた「真剣なまなざし・意欲」を見ることが、我々教員の一番の喜びであり、救いです。
 個人的には、市が何と言おうが、ぶっつけ本番でも普通通りの卒業式をさせてあげたいと思ってしまいます。私だったら「何のためにこれまでやってきたんだぁ!」って思いに駆られてしまうにちがいありません。卒業式も単なるイベントの一つ、他のイベントと同等と思われているかもしれませんが、おじいちゃんはそうではないのです。この危機的な状況下だからこそ、彼等が掴めるかもしれない何かがあるように見えるのです。ラグビー日本代表が感動を産む活躍を見せたように……。  2020.3.6

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