Vo.9 mustに脅える焦燥の観念

 mustに脅える焦燥の観念 2016/11/10
(概念で観念を封じ込めるな)
             ーかつて書いたメモからー

 日々のめまぐるしくうつりゆく世の中にあって、誰もが焦りを感じつつ生活していることだろう。政治家であれ、企業主であれ、サラリーマンであれ、自営業者であれ、スポーツ選手であれ、芸術家であれ、教育者であれ、学生であれ。
 「このまま何もしないと、取り残される。」という強迫観念にも似た状況の中でほとんどの人々が生きているのである。「~~せねばならない」「~~しないと大変なことになる」といった潜在的に存在するかのような意識の中で、我々は追い立てられつつ生活している。
 「こうあるべきですから、こうしなさい。」は、「こう考えることが当たり前でしょ!だったら、そうしないのはいけないことですよ!」であり、「誰もが認める当然の事柄(概念)なのだから、君がどう考えようが(どんな観念を持とうが)関係ありません!ただただ、その概念に基づいて行動すればいいのです。」といった図式で表面化する。
 概念を法律や常識と置き換えて、ゆるぎなきものとして扱う意志である。
               ここで終筆

 2018/6/8 現在、それからどう変わったのか?何も変わっちゃいない。より、堅固な状態へとステップアップしてしまっていると感ずる。
 巷では「スモールステップ」とか「協働」とかじじいにとっては煩わしい理念が浮遊しているが、無制限に野放図に交錯し、教育体系の中に我も組み込まれんといたずらにはしゃいでいるとしか見えない。「ICT推進教育」「ユニバ―サル・デザイン」‥‥。「ICT」の成れの果てが「C4h」かと揶揄してしまいたくなるし、「UD」の考え方が、多様な生徒を網羅できるはずもなく、効率性の悪さから、時代の波に煙たがられるありさま。方向性のまちまちなちまちました教育施策。最近では、 目標をある程度手の届くところに定めることにより達成感を積み上げていく「スモールステップ」とやら‥‥。その個人が自らの大目標を達成するために、スモールステップを配置し、小さな目標を達成していきながら、あやまたず最終的な大目標に達すればいいのだが、そのスモールステップもいずれ大人が配置し、あてがわれた目標となって形骸化していく気がしてならない。子供たちが自分の考え、自分の感性を根幹にして物事を判断したり、味わったりすることができるような支援を施す根本的な改革が必要であると思う。

 結局「教えられた価値観(押し付けられた価値観)」のみが先行、優先してゆく社会。前にも述べたが、子供たちも同じなのである。「いじめ」を小さな社会の中で体験し、「いじめ」についての切実な己の価値観を持っていれば、最悪の危機はずいぶんと避けられよう。「いじめ」の存在しない無菌状態であることが良しとされ堅持される中で教えられる「いじめ」は、生徒にとっては「教えられた価値観」であって、疑似体験の域を出ない。決して体現を呼び起こす事柄としては浮かび上がってこないのである。
 「美しい」はずのものを見ても「美しい」とは感じていない生徒。ただ、「これは『美しい』んだよ!」と教えられているから、そう思っておこうとする生徒。教師も同じで、個々が自信が持てぬ中で与えられる正しそうな顔をした施策、教育方法。実感もないまま遂行し、虚しさと忙しさの中に放り込まれたかのような焦燥感。
 「押し付けられた価値観」を持った教師から「押し付けられた価値観」を植え付けられ、培養させられている生徒の様相。戦時中じゃあるまいし! あ、自分の考えを自ら拒否せねばならぬ感覚は現代も同じじゃないか! END

ーーーーーーーーーーーーーーー
どの子にも涼しく風の吹く日かな  飯田隆太
ーーーーーーーーーーーーーーー

白髪レガシーVol.9 PDF