Vol.64 感覚に寄り添わない教育

 自分が子供だったらどう思うだろうか?というところに立つ教育のあるべき姿はもうないのでしょうか?
 指導要領の改訂、評価規準の観点変更に伴い異議を唱えたいのです。現場は、新たな観点の「知識・技能」「思考・判断・表現」はもとより、いかに生徒が学習を調整して、知識を習得するために試行錯誤しているか という部分を評価する「主体的に学習に取り組む態度」という観点に苦慮していると思います。確かに「ノートの取り方や挙手の回数など、生徒の性格による部分や形式的なものによって判断する」傾向であった旧観点「関心・意欲・態度」ですが、新観点「主体的に学習に取り組む態度」では、児童・生徒が 「いかに主体的に学習を調整して、知識を習得するために試行錯誤しているか」という部分を評価していくようでなのです。表面に出た見た目の意欲だけにとらわれない部分を評価せよということなのでしょう。しかし、評価するには材料が必要となるので、昨今では、「授業振り返りノート」のような形で、「学習に対する 粘り強く 前向きに 改善に向けた手立て」を書かせ、提出させ、これをもって、「主体的に学習に取り組む態度」を見極める方向性にあると感じています。「見えない生徒のやる気や努力を見過ごすことなく、見える形で評価しろ!」ということなのでしょう。
 一回一回の授業の中において、それを実践させる術は、そう多くはないと思います。だから「振り返り○○」といったものに頼らざるをえない運命なのかもしれません。
 これを子供の立場から見た時には、どうでしょう。こぞってどの教科からも「ふり返りなんチャラ」の提出を(毎日ではないにしろ)求められる。加えてノートだ。ワークだ。プリントだ。ときたらたまったものではないと思うのです。いずれ「振り返りなんチャラ」を書くことが、生徒たちの評価を上げる目的となってしまうでしょう。「自分自身がどう意欲的に取り組んだか」というより、「振り返りなんチャラ」を書いたかどうかが規準となってしまう恐れがあるということです。教師からすれば、実際には見ていない、嘘八百かもしれない 主体的な態度 を、生徒の書いた○○を頼りに評価を生み出すことにもなるやもしれません。道徳の評価も似たようなものですが、今回は、観点として、1/3 の評定に関わるのですから、どう融合させるのかが大問題となるわけです。
 また「教科によって評価の方法が異なってはならない」という呪縛が、さらに追い打ちをかけているようです。また現状でも「同じ教科内であっても、指導・評価方法を統一させるべき」という認識は強くなってきています。必要だと思う評価のための方法を必要な教科や教師がとるで留められれば良いとは思うのですが‥‥。
 授業内での挙手の回数だけで、意欲を計るのは良くないらしいです。しかし、その発言の熱意や目の輝きを加味して、評価材料として残す術があるなら、この限りではないはずです。もっと言うならば、「ノートの取り方や挙手の回数」が評価材料とはならないと考えてしまうのも純粋にかえっておかしなことなのでしょう。
 評価基準(方法)は各々の教師が、指導要領の内容を基に定めていいという言質がほしいのです。後出しで、それじゃだめだぁ。なんだかんだ。 と言われたくないからです。
 子供は、学問にいつ食いつくか分からぬものです。ひらめいた時に、それについてさらに考えるゆとりが、日常にあってしかるべきと思うのです。黙殺されるような忙しさの中に教師が行う評価のために子供を追い込むのはしのびなく思ってしまうのです。自然な形で、生徒から見ても不自然ではない形で、お互いが無理のない地点を見定め、評価してあげる方策を考えていくことが大事なのかなと思います。
                2021.2.3

白髪レガシーVol.64 PDF