Vol.51 エトセトラ ……(最近思うあれやこれや)

 形骸化。その一途[イット]をたどる社会。

 意味のない意味のあること?
 意味のある意味のないこと?

 あなたの見据える未来に自由がありますか?それとも支配がありますか?
 解放されないまま支配の波にのまれていく気がしませんか?
 制約や支配というプレッシャーの中で萎える思いを抱えた大人に、子供たちが追随する世の中など想像したくもありません。乾燥した砂漠に乾燥室を作っている気がしてなりません。

 なにもないことが平和なのか?
 戦争がない。争いがない。喧嘩がない。いじめがない。仲間外れがない。わずらわしさがない。ない、ない、ない‥‥。そうならないようにようにしよう。
 突き詰めていき何もなくなったときに、そこに不安が残るのであれば、それは平和ではないだろう。
 平和とは、はっきりとは見えない中でうつろう空気のようなもので、確証は持てぬままに一人一人が生み出す前向きな「こうあるといいな!(^^)!」と思うささやかな行為の結晶である。確証を持てないものであるからこそ、自分なりにいいと思うことに踏み出せるものでもあろう。ひそかにしめやかにゆったりと漂うごとき善なる各々の思いがあふれんばかりとなるとき、平和は体現として受け止められるであろう。「ねらい」や「みかえり」、「損得」「名声」を気にして成り立つものでは決してないのである。
 殺伐とは裏腹の世界に漂うあたたかみのあるそれを紡いでいこう。

 「本音と建て前」とはよく言われるが、悪しき「本音」も「建て前」に仕立てて紛れ込ませられれば善しとするのは如何に。
 授業をしていて、発問し意見を生徒に求めた時、彼らは「建て前」を模索する思考に入ってしまう。文学作品であれば、致命的なことである。建て前を学ぶことは決して間違いではないが、建て前の中に人の思いや本音が埋没してしまうのが寂しく思う。
 今現在、生徒は各クラスで「議案書討議」を行っている。各委員会で創った活動方針と言うべき「建て前」を述べ、説明をしているのだ。型やしきたりを学ぶことは思考の効率化の一翼をなすのであろうから、確かに重要ではある。しかし、「そこに心はあるのかい?」と本心や本音を手繰ってみても、見つけられることは少ない。建て前づくりのために建て前を使い、本音という思いの原点が見えないものとなる。社会はこのルーティーンに侵されているのだろう。学生運動もなく、労働者のストライキもなくなった現代。抗議の方法もなく溜め込まれていくうっ憤は、どんな形で弾けるのか心配でならない。
 試作から典型(プロトタイプ化)の波の中で消えていく小さくも個性的な様々の業種。まるでひとり勝ち社会の構図である。進歩のためと競争をあおり一番だけが勝ち残る。二番以降は負け組となり、消えていくものも多くある。一番は覇権を有し不動の地位を得たかに見える。争う相手がいなくなった時、守りの門が築かれる。聞く耳を持たなくなるのだ。利用者の声を聞かない。うちが独占的に作っているのだから、利用者が選ぶという余地がないのだから、あぐらをかいてていいんだというおごりに陥る。なにゆえそうなるように仕向けるのか。

 見える世界に澄み渡る空気があらんと願う。
                2020.9.29

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