Vol.20 -立場から眺め見る世界に真意なし-

-立場から眺め見る世界に真意なし-

 立場って何なんだろうって思いませんか?
 沖縄の人の「心に寄り添う」と言った政府。沖縄に住む人の立場に立って考えているとは決して思えませんよね。「政府には政府の立場があるんだ」と言いたげにも聞こえてきてしまいます。
 被災者や被害者には、そこに確たる思いを持った立場が存在します。また、加害者にあたる者にもその立場が存在するのです。
 このところその情状に寄り添うことが大変薄くなってきているように思えてならんのです。自分とは全く関係ない立場から、乾いた物事として見て、裁量・裁定している気がするのです。これが合理性とでもいうのでしょうかね。そこで今悩んだり苦しんだりする現場の状況や心情に自分を置いてみて(立場を移行して)まずは知ろうとすることが大切なのに‥‥。自分は安全な場所から表向きわかった風をよそおって、寄り添っているとするのは、どう見ても違和感が漂うわけです。
 「なるほど」という言葉が死語になりつつある現在において、注文するのははばかられますが、それでもせめて「そだね~」といえるくらいの真意や意味をもって、仕事に従事したいものです。 「なんのためか」「何の意味があるのか」がわからないまま、知らされることもないまま、ただただ職務を遂行しろといわれてもねぇ‥‥。タイムカード、男女混合名簿、B訪問にむけた授業略案、C4の使う教員側に立たない指向‥‥。クズのような仕事に時間をとられ、やろうと思う高き志をもつ仕事に手も付けられず、世知がなく、かすれ乾いた教育現場で、なんの気概も持つことができないのではないでしょうか。
 立場は人を変える部分はあるだろうけれど、他人の立場に立つという気概を失ってはいけないでしょう。意味のあると思われることを濃く実践する中で、共に考え意見を交わし、取捨選択し高めていくのが、活きた現場(社会)のありかただと強く思う次第です。

 「考える力」の前に「感じる力」が求められる社会。人は先ず何かを感じ、「そうするためには」とか「そうならないためには」と考えるのが常套であり、それが今日までの社会を築き上げてきたと信じたいのです。「この一二年で教育界は大きく流れを変えてきている。」そう感じる私にとっては、「考え得る何かをここに残さなくてはならんと考えます。
 ブラック企業と揶揄される教育現場。その方策として、勤務形態の調査やタイムカードの導入があるのだとは言われますが、それが行われたとして、私の感覚(感じていたこと)が解消されるとは思いません。結局ツケがまわってくるに違いありません。お上からすれば、「ちゃんと方策は講じてますよ」と言うのでしょう。それは世間に向けた(世間を見た)言い訳に過ぎず、働く我々に向けられた(我々を見た)ものでないのは明白です。このずれ。ここに感覚の痛みが走ってなりません。
 職場は常にいそがしく、各々が与えられた自分の責務を全うせんと働いている。一見するととても真っ当な職場にも見えるでしょう。しかし、その内情は?と問われれば、言いたいことはたくさんあるはずです。言いたいことを論議する機会も場面もなく肯定化されていく現状に危惧を感じてなりません。        (2018.12.24)

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