Vol.16 --聞こえるー見えるー信じるーー

--聞こえるー見えるー信じるーー<前号の続き>

 見えるものしか信用しない。現認できないものは掃き捨てる。つまり、聞こえないところにある真実の声を聞こうとしない、見えないところにある真実の姿を見ようとしない。 日本人が大切にしていかねばならないのは(子どもたちに伝えていかねばならないのは)、そんな精神ではないはずだ。たとえ、声に出されてなくても、その状況をそこはかとなくおもんばかり、よき方向へとそれとなく自然に導いてあげればよいではないか。そこに存在するモヤっとはしておれど、どこか温かみのある空気が、割り切ることのできぬその空気こそが大切なのだと‥‥。社会と民衆の間でも企業主と労働者の間でも、教師と生徒の間でも、同等の立場同士の間であっても、相互に流動的に行き来すべき心情である。
 そこにある他者の状態・心境おろか、自身の状態・心境をさえ、見えなく聞こえなくしているのが現状であり、根っこの部分を顧みることを意図的に回避してしまう風潮が感じられてならぬのだ。 
 生徒が先生に叱られるとき、彼らは防御の姿勢にまず入る。そして言い訳を探す。さして良き言い訳も浮かばず、さらに怒りをかう。言い訳を思いついたところで、つたなくもあさはかな見当違いの弁明となり、化けの皮がはがれて、さらなる怒りをかう。
 生徒も相手を探している。自分の気持ちを分かってくれた上で叱られるならば、素直な気持ちになることもできよう。ところが、「こいつほんとにうざい!嫌いだ!」という気持ちが感じられた上で怒られたならば、反発もしよう。原則論で頭ごなしに解決していく際に起こりうるトラブルは皆、人間味を失った閑散とした乾燥した空気がたちこめる場面で起こる。心の交流とかと言われるが、 多くは上からの一方的な流しであって、下からの汲み上げを含めた双方向の可逆的なものであることは少ない。理解のないままに、叱られたり、判断されたりすることは、生徒を問わず大人だってたまらなく悔しいのは同じなのである。
 ○○じゃないからハイだめっ!△△だから認められません! 原則論が幅をきかして、心情をおろそかにする現代に未来や希望を感じとることができようか。

 シリアで拘束され、先日帰国した安田純平の件、前号「自己責任」というものと結び付けることに、反旗を翻す形で書いたが、なんでそれを持ち出したのか、分からない方もいるだろうから述べておく。

 ピューリッツアー賞をとって、名声を得るのだとかいう己自身のために紛争地域に彼は行ったのではないと感じたからだ。言い換えれば、その紛争地帯にいる人々の真実の声を知ろうとしていたのだろうと見えた(聞こえた)からだ。その中に入っていってこそ知りえる真実の種を掘り出さんとしていたと見える。
その過程で拘束されてしまったのであろう。紛争地帯に行きもしないで、真実の姿を見もしないで、あっちが悪い、こっちが悪いと御託を並べるだけで、現地で生きている人々の思いなど見向きもしないで、原則論でくくろうとする風潮に腹が立ったのだ。この事件もやがて「あぁ、あの紛争地帯に勝手に行って、拘束されたジャーナリストの迷惑な話。」ってところに落ち着いてしまう気がしてならない。もうすでになっているのかも。そう、それがたまらなく怖ろしいのである。

 教員もそうやって落とし込まれて行かぬよう気を付けよう。でも、真実の扉を開こうとすれば、快く思わない者によって迷惑扱いされて、つぶされ抹殺されていくんでしょ? うん、だからって追随するだけになって、己を失ってはいけないわな。落とし込まれるところの罠を解く。そう言っておこう。

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