Vol.21 IT化社会におけるAI ‥‥そして道徳

IT化社会におけるAI(Artificial Intelligence)
                     ‥‥そして道徳

 自動運転、自動制御 テクノロジーの向かう先には、自ら学び、考え、判断するAI(人工知能)の存在が強く描き出されている。利便性と安全を求める世の中において、これほど心躍る先見の明に合致したシステムはないと思われる。しかし、人間から仕事を奪うことにつながる側面があるとも言う。またまた、「どうすりゃいいのよ」てか。
 考えてみれば、AIは人が考えず、判断しないで済む方向へとつき進んでいるといえよう。考えるという労力を要しないのだから結構と感ずる人も多かろう。でもそこに自分という人間の存在する価値を見たならば、どうだろう。教師だってAIがやればいいわけだし、彼ら(AI)は疲れも、悲しみも喜びも関係なく、ただただ良いとする方向を模索してやるだけである。あれ?もしかしたら我々はすでにAIの代わりにやらされている教師なのかも! 横道にそれたが、人間としての自分の存在価値が見受けられない環境が、粛々と築きあげられているのだ。「君が考える必要はない。ただ言われた通り執行すればいい!」そんな風に言われる日が、そう遠くない未来に迫っている。職員会議を見ればわかるとおり、一般職員がどうのこうの考えたり、模索したりする機会は確実に減っている。発言すらしづらいともいえるだろう。
 考えないで済む方向へと考える間もなく誘われる社会にあって、生徒たちには「考えろ」と要求する。深く考えなくても、結果を得られる教育を施していながら、生徒たちには「自分で判断しろ」と要求する。「考える」というメソッドをとらせるだけであって、本当に真摯に考えたかとか、考えた内容とかは、どうでもいいこととなってしまう。とりあえずやれば(考えるらしきことをすれば)いいに終始してしまう流れが浮かんでいる。
 効率化、安全化の裏側にあるパラレルワールド。その忌まわしき世界の方は煙に巻いて見せず、その有能性や優越性を高らかに誇示する。
 受験戦争、学歴信仰。今から40年ほど前の日本はそんな状態であった。生徒たちは二分化していった。勉強のできるものはそれ漬けになり、そうでないものは落ちこぼれて暴徒化する。どちらにしても、心に余裕はないのは確かである。さて、現代の子供はといえばどうだろう。受験戦争は厳しくはなくなったが、彼らの心の余裕は昔のそれ以上に稀薄といわざるを得ない。
わけもわからず詰め込まれて、考える余裕もなく生きてきているのは現代の子供たちなのである。
 自ら考えなくても、自ら判断・行動しなくとも済む社会へと向かう情勢にあって、人はますます考えることを止めてしまう気がしてならない。この情勢下で人はいったい何を大切なこととして捉えなければならないのか。
 それは潤いのある情感と前向きな思考に尽きると思う。感じることから始まって、どうしてそう感じたのか、どうすればいいのかと、一から思考を組み上げることが必要なのだ。えてして都合のいいメソッドが見つかれば、そこに依存してしまい、考えることを中断して、やがては消去してしまう。そんな繰り返しの中に現代は存在する。
 道徳は個人の経験を通して、緩やかに一から組み上げられていく理念であると思う。決してあてがわれて理解させられるようなものではないはずだ。人が「考える」機会を奪われてゆく中で、あてがう「枠」は細分化しつつ増加し、人の心をむしばむ。道徳は法律ではないにもかかわらず、 教科化という法制化されたかの認識をあおっている。
 押しつけがましさのない情操教育を子供たちに施してあげることが、己を失わない理念づくり(一から紡ぎ育んでゆく理念)=道徳になるのではないか。
言いたい。方向性を間違えるな! ○○と考えられるから△△と思いなさい(感じなさい)ではなく、○○と感じるから、あれこれと考えることが必要なのだと。感じる心から思考が始まるのだと。     2019.1.10

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